今日は、南北朝時代の1358年(延文3/正平13)に、室町幕府初代将軍足利尊氏の亡くなった日ですが、新暦では6月7日となります。
足利尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれ、母は上杉清子でしたが、通称は、又太郎といいました。
1319年(元応元)に元服し、高氏と名乗り、従五位下治部大輔となり、北条久時の女登子と結婚します。1331年(元弘元/元徳3)に、父・貞氏が死去すると足利氏の家督はを継ぐことになりました。
同年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、天皇軍討伐の幕命を受けて上洛し、それを平定後、鎌倉に帰ります。
1333年(元弘3/正慶2)に、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上しましたが、反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼしました。
その半月後に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は京都に帰還して、建武新政が開始され、討幕の功臣として天皇の諱の一字を賜って、尊氏と改名します。
その後、後醍醐天皇との対立が深まり、1335年(建武2)関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定し、翌年光明天皇を擁立して、北朝を興し、南北朝時代となります。
そして、「建武式目」を制定し、1338年(延元3/暦応元)には征夷大将軍となり、室町幕府を創始しました。
しかし、南北朝の騒乱が続き、各地で戦闘が繰り返されます。1352年(正平7/観応3)の観応の擾乱では鎌倉へ入り、弟の足利直義を討ったりしました。
一方、夢窓疎石に帰依し、後醍醐天皇の冥福を祈るため元に天龍寺船を派遣し、その利益で天龍寺を建立するなどしましたが、1358年(正平13/延文3年4月30日)に、京都において、53歳で亡くなりました。
〇足利尊氏関係略年表(日付は旧暦です)
・1305年(嘉元3) 足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれる
・1319年(元応元) 元服して高氏と名乗り、従五位下治部大輔となる
・1319年(元応元) 北条久時の女登子と結婚する
・1331年(元弘元/元徳3)9月 父・貞氏が死去し、足利氏の家督を継ぐ
・1331年(元弘元/元徳3) 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こす(元弘の変)と、上洛して平定する
・1333年(元弘3/正慶2) 後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上する
・1333年(元弘3/正慶2)5月 反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼす
・1333年(元弘3/正慶2)5月 鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元)1月 建武の新政が行われる
・1335年(建武2)7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
※南北朝の対立が始まる
・1336年(延元元/建武3)5月 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)
・1336年(延元元/建武3)11月 「建武式目」を制定する
・1337年(延元2/建武4)3月 高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2)8月 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2) 天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4)1月 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5)9月 関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元)10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1352年(正平7/観応3) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3)7月 観応半済令が出される
・1358年(正平13/延文3)4月 足利尊氏が亡くなる
足利尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれ、母は上杉清子でしたが、通称は、又太郎といいました。
1319年(元応元)に元服し、高氏と名乗り、従五位下治部大輔となり、北条久時の女登子と結婚します。1331年(元弘元/元徳3)に、父・貞氏が死去すると足利氏の家督はを継ぐことになりました。
同年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、天皇軍討伐の幕命を受けて上洛し、それを平定後、鎌倉に帰ります。
1333年(元弘3/正慶2)に、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上しましたが、反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼしました。
その半月後に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は京都に帰還して、建武新政が開始され、討幕の功臣として天皇の諱の一字を賜って、尊氏と改名します。
その後、後醍醐天皇との対立が深まり、1335年(建武2)関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定し、翌年光明天皇を擁立して、北朝を興し、南北朝時代となります。
そして、「建武式目」を制定し、1338年(延元3/暦応元)には征夷大将軍となり、室町幕府を創始しました。
しかし、南北朝の騒乱が続き、各地で戦闘が繰り返されます。1352年(正平7/観応3)の観応の擾乱では鎌倉へ入り、弟の足利直義を討ったりしました。
一方、夢窓疎石に帰依し、後醍醐天皇の冥福を祈るため元に天龍寺船を派遣し、その利益で天龍寺を建立するなどしましたが、1358年(正平13/延文3年4月30日)に、京都において、53歳で亡くなりました。
〇足利尊氏関係略年表(日付は旧暦です)
・1305年(嘉元3) 足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれる
・1319年(元応元) 元服して高氏と名乗り、従五位下治部大輔となる
・1319年(元応元) 北条久時の女登子と結婚する
・1331年(元弘元/元徳3)9月 父・貞氏が死去し、足利氏の家督を継ぐ
・1331年(元弘元/元徳3) 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こす(元弘の変)と、上洛して平定する
・1333年(元弘3/正慶2) 後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上する
・1333年(元弘3/正慶2)5月 反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼす
・1333年(元弘3/正慶2)5月 鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元)1月 建武の新政が行われる
・1335年(建武2)7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
※南北朝の対立が始まる
・1336年(延元元/建武3)5月 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)
・1336年(延元元/建武3)11月 「建武式目」を制定する
・1337年(延元2/建武4)3月 高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2)8月 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2) 天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4)1月 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5)9月 関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元)10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1352年(正平7/観応3) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3)7月 観応半済令が出される
・1358年(正平13/延文3)4月 足利尊氏が亡くなる