大久保長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)は、戦国時代の1545年(天文14)に、甲斐国で、甲斐武田氏の猿楽衆大蔵大夫の次男として生まれましたが、名前は初め藤十郎といいました。
蔵前衆(代官)として、武田家に仕えていましたが、その滅亡後は、徳川家康の家臣に取り立てられ、大久保忠隣の庇護を受けて、大久保十兵衛と改称して、甲斐の民政を担当します。
1590年(天正18)の小田原征伐後、徳川家康の関東入国後は、抜擢されて代官頭となり、直轄地支配、知行割、検地などで活躍しました。その業績により、1591年(天正19)には、徳川家康から武蔵国八王子に8,000石(実質的には数万石とも?)の所領を与えられます。
1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは、徳川秀忠軍の先鋒として木曾路に入り、木曾の森林資源と運材河川の利権を確保しました。
翌年には、彦坂元正と共に東海道、中山道の伝馬制を定め、一里塚を設置し、伊奈忠次と関東諸国の検地を行い、甲州総代官、大津町奉行ともなりました。
また、1603年(慶長8)に石見銀山兼佐渡金山奉行となり、同年伊豆銀山奉行ともなって、全国の鉱山を管轄しました。1605年(慶長10)頃には、大和・美濃の国奉行を兼ねて強大な権限を持ち、駿府城再建工事、丹波篠山城、亀山城などの普請にもかかわります。
しかし、1613年(慶長18年4月25日)に、駿府において、68歳で亡くなりました。
没後、生前に不正があったとされて、お家断絶となり、家族が切腹、大久保忠隣、石川康長らが連座して改易となる「大久保長安事件」が起こります。