イメージ 1

 今日は、安土桃山時代の1583年(天正11)に、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北した日ですが、新暦では6月11日となります。
 この戦いは、北近江の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)を中心に行われた豊臣秀吉と柴田勝家との戦いでした。
 本能寺の変後、織田氏の後継者を決める清須会議で豊臣秀吉と柴田勝家が対立します。その両者が、織田勢力を二分する激しい戦いを繰り広げることとなりました。
 1583年(天正11)3月12日、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了します。一方、羽柴秀吉は、3月19日に約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣しましたが、しばらく膠着状態が続きました。
 4月16日に、一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出したので、翌日に羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入ります。
 これを好機ととらえた、佐久間盛政軍が4月19日に秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死し、賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始しました。
 しかし、岐阜城から羽柴秀吉が急遽駆けつけ(美濃の大返し)、4月21日早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家軍を攻め、越前に敗走させます。この時に、秀吉方で功名をあげた兵のうち7人(脇坂安治、桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明)が後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになりました。
 その後、羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻め、とうとう、4月24日に柴田勝家を自害させます。
 この賤ヶ岳の戦いで、秀吉が勝利することによって、その立場を確固たるものにし、天下統一へと向かっていくことになりました。

〇清須会議とは?

 本能寺の変後、山崎の合戦を経て、安土桃山時代の1582年(天正10)6月27日に、織田氏諸将が清洲城(愛知県清須市)に集まって、織田家の跡目や遺領の配分を決めることを目的に行った会議です。
 集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとされています。
 織田信長の次男信雄と三男信孝が後継争いをしましたが、羽柴秀吉の強い主張で長男信忠の遺児三法師が後継者と決まりました。この会議の結果、柴田勝家の影響力が落ちて、羽柴秀吉の影響力が増し、織田家内部の勢力地図が替わることになります。
 その後、両者の対立が深まり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながったと言われています。

〇賤ヶ岳の戦い関係年表

<1582年(天正10)> 
・6月2日 織田信長と嫡男織田信忠が明智光秀の謀反によって横死(本能寺の変)
・6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を討つ
・6月27日 織田氏の後継者を決める会議(清須会議)が開かれ、柴田勝家と羽柴秀吉との間で激しい対立が生じる
・12月18日 約3万の兵力の羽柴秀吉軍が美濃国へ入る
・12月20日 羽柴秀吉軍に包囲された岐阜城の織田信孝が降伏する
・12月 柴田勝家の甥の勝豊が守る近江の長浜城が、羽柴秀吉に攻められて降伏する

<1583年(天正11)>
・1月1日 伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を鮮明にして挙兵する
・2月20日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の国府城を落城させる
・3月3日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の亀山城を落城させる
・3月12日 柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了する
・3月19日 羽柴秀吉は約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣する
・3月27日 羽柴秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備える
・4月12日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の峯城を落城させる
・4月16日 一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出する
・4月17日 羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入る
・4月19日 佐久間盛政軍が秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死する
・4月20日 劣勢と判断した賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始するが、岐阜城から羽柴秀吉が木之本に駆けつける
・4月21日 羽柴秀吉軍が、早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家を攻め、越前に敗走させる(賤ヶ岳の戦い)
・4月23日 羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻める
・4月24日 越前北ノ庄城で柴田勝家が自害する
・5月2日(4月29日説あり) 尾張国知多郡内海で織田信孝が自害する
・7月 滝川一益が北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏する