この政党は、明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つで、大隈重信を中心に小野梓・尾崎行雄・河野敏鎌・沼間守一らが参加し、イギリス流の漸進主義をとりました。その主張は、立憲君主制のもとでの二院制議会の早期開設で、金貨制の断行、学問の独立、政教分離、地方自治などを訴え、都市知識人、産業ブルジョア、地方の商工業者、地主層の支持を得ます。
結党時は党員116名からスタートしましたが、しだいに増加し、1884年(明治17)4月には1,729名に達しました。しかし、自由民権運動の激化事件の発生、政府の弾圧強化、自由党解党などの影響を受けて、解党論が台頭し、総理の大隈重信をはじめ、小野梓、河野敏鎌らが脱党するという事態が生じ、停滞します。
後に、大隈重信が復帰し、三大事件建白運動・大同団結運動では旧自由党系と連携して行動したものの、大同団結はなりませんでした。
1890年(明治23)の帝国議会開設後は、41議席を占めて、民党として活躍し、自由党と協調して民力休養を唱え、予算の削減にあたるなどします。
1894年(明治27)に日清戦争が始まると、国権主義的立場に立って支持を拡大し、1896年(明治29)には解党し、立憲革新党などと合同して進歩党となりました。
〇自由民権運動とは?
明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に自由民権運動が始まりました。
それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。
しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。
その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件がおきることになりました。
☆ 自由民権運動関係年表
<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平が佐賀で乱を起こす(佐賀の乱)
・4月 板垣退助らが立志社を設立する
<1875年(明治8)>
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される
<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)
<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される
<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする
<1880年(明治13)>
・3月15日 国会期成同盟が結成される
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
このころから、自由民権運動が高揚しはじめる
<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる
<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信が立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる
<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する
<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる
<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる
<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる
〇大隈重信とは?
明治時代から大正時代に活躍した政治家・教育者です。江戸時代後期の1838年(天保9年2月16日)に、肥前国佐賀(現在の佐賀県佐賀市)に、佐賀藩砲術長の父大隈信保、母三井子の長男として生まれましたが、幼名は八太郎といいました。
7歳で藩校弘道館に入学しましたが、教育方針に不満を持ち、学制改革を試みるものの、退学するに至ります。1856年(安政2)に、蘭学寮に移って西欧の学問に接し、1865年(元治2)には長崎に出て、アメリカ人宣教師フルベッキに英学を学びました。また、京都や長崎を往来して、尊王攘夷派として活動し、1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしますが、捕らえられて謹慎処分を受けます。
明治政府成立時の1868年(明治元)に、参与兼外国事務局判事に登用され、外国官副知事に昇進、翌年会計官副知事、次いで大蔵大輔として手腕を発揮し、1870年(明治3)には参議となりました。その中で、秩禄処分、地租改正、殖産興業政策などを推進しましたが、明治十四年の政変で下野することとなります。
1882年(明治15)に、立憲改進党を結成して総理となり、同年に東京専門学校(後の早稲田大学)を創立し、青年教育にも当たりました。1888年(明治21)に外務大臣となり、条約改正交渉にあたりましたが、反対派に爆弾をなげつけられて右足を失います。
1898年(明治31)に板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織し、総理大臣となったものの、党内抗争と薩長の妨害でわずか4ヵ月で総辞職するに至りました。
1914年(大正3)に第2次内閣を組織して、再び総理大臣となり、第一次大戦に参戦、翌年には「対華二十一ヵ条要求」を提出、軍備拡張を行ったします。
しかし、1916年(大正5)に侯爵に叙せられた後に辞職し、1922年(大正11)1月10日に、東京において83歳で亡くなりました。
著作には、『大隈伯昔日譚』、『開国五十年史』(編著)、『開国大勢史』、『東西文明の調和』等があります。