伊能忠敬は、1745年(延享2年1月11日)に、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家で生まれましたが、幼名は三治郎といいました。
1745年(宝暦12)18歳のときに佐原の伊能家の養子となり、名を忠敬と改めます。酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。
1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事します。その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。
それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行いました。
これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、73歳で没しています。
千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられました。
〇伊能忠敬関係略年表(日付は旧暦です)
・1745年(延享2)1月11日 上総国山辺郡小関村の名主五郎左衛門家で生まれる
・1751年(宝暦元) 母(みね)が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る
・1755年(宝暦5) 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる
・1762年(宝暦12) 下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入り、名を忠敬と改める
・1781年(天明元) 佐原村本宿組名主となる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する
・1794年(寛政6)12月 隠居して家督を長男景敬に譲る
・1795年(寛政7) 江戸に出て幕府天文方高橋至時に師事して暦学天文を学ぶ
・1800年(寛政12)閏4月19日 第1次測量(奥州街道‐蝦夷地太平洋岸‐奥州街道)180日間
・1801年(享和元) 第2次測量(三浦半島‐伊豆半島‐房総半島‐東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道)230日間
・1802年(享和2) 第3次測量(奥州街道‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道)132日間
・1803年(享和3) 第4次測量(東海道‐太平洋沿岸‐名古屋‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道)219日間
・1805年(文化2) 第5次測量(東海道‐紀伊半島‐琵琶湖‐瀬戸内海沿岸‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐東海道)幕府直轄事業となる
・1808年(文化5) 第6次測量(東海道‐大阪‐四国‐淡路島‐大阪‐吉野‐伊勢‐東海道)
・1809年(文化6) 第7次測量(中山道‐山陽道‐九州東海岸‐天草‐熊本‐大分‐萩‐中国内陸部‐甲州街道)
・1811年(文化8) 第8次測量(甲府‐九州‐屋久島‐種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐・対馬‐五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越)913日間
・1815年(文化12) 第9次測量(東海道‐下田‐伊豆諸島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸)忠敬は不参加
・1816年(文化13) 第10次測量(江戸府内)
・1818年(文化15)4月13日 江戸において死去するが、喪を秘して地図製作は続行される
・1821年(文政4) 『大日本沿海輿地全図』が完成し、3ヶ月後に喪が公表される