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 今日は、鎌倉時代の1284年(弘安7)に、鎌倉幕府第8代執権北条時宗の亡くなった日ですが、新暦では4月20日となります。
 北条時宗は、1251年(建長3年5月15日)に、鎌倉幕府第5代執権であった父・北条時頼、母・北条重時の娘(葛西殿)の三男として生まれましたが、幼名は正寿丸といいました。
 1257年(康元2)に元服し、1260年(文応元)に小侍所別当となり、翌年に安達義景女(泰盛養女)の堀内殿と結婚します。
 1263年(弘長3)に、父・時頼が死去し、翌年に第6代執権長時が出家し、政村が第7代執権となると、連署に就任しました。
 1268年(文永5)3月、政村にかわって第8代執権となり、政村が連署となりますが、得宗としての地位を確定しながら、この年以降度々訪れた元の使者を退けます。
 九州の防備体制をかため、1274年(文永11)の文永の役、1281年(弘安4)の弘安の役と2度の元寇に際しては、強硬に幕政を指導して、これを撃退しました。
 この間、禅に深く帰依し、宋から無学祖元を招請して、1982年(弘安5)鎌倉に、円覚寺を創建します。
 3度目の元寇に備えて、国防に専念しましたが、病気にかかり、1284年(弘安7年4月4日)に32歳の若さで、亡くなりました。

〇元寇とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいました。
 1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んでいますが、台風の襲来による蒙古軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。
 2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 蒙古軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月―第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月―第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1269年(文永6)>
・2月―第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月―第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月―第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月―第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日―蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日―蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日―蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日―蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日―蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日―服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月―鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1281年(弘安4)>
・5月3日―蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日―蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日―蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日―志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日―蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日―壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日―壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日―鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日―台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日―蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日―鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)