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 今日は、日本黄檗宗の開祖隠元隆琦の亡くなった日ですが、新暦では5月19日となります。
 隠元隆琦は、江戸時代前期に明から渡来した禅僧で、1592年に明国福建省福州府福清県に生まれました(俗姓は林氏、母は龔氏)。
 21歳のとき旅に出、23歳で寧波の普陀山にのぼり潮音洞で茶の接待役となって仏道修行し、29歳のとき福州黄檗山の鑑源興寿について剃髪出家したのです。
 33歳より臨済宗の密雲円悟に就いて参禅しま、43歳のときに費隠の法を嗣ぎ、46歳で古黄檗の住持に請ぜられました。
 1652年(承応元)より長崎・興福寺の逸然性融(明僧)らの懇請があり、隠元は3年間の約束でこれに応じ、1654年(承応3)に一行30名が鄭成功の仕立てた船で来日、長崎に着いたのです。
 1658年(万治元)には、江戸に赴き、第四代将軍徳川家綱に謁見、永住を決意して幕府から山城の宇治(現在の京都府宇治市)に寺地を与えられました。
 そして、1661年(寛文元)一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創し、日本の黄檗宗の開祖となったのです。能書家で、黄檗三筆の一人とされ、著署として「黄檗語録」「普照国師広録」などを残しましたが、1673年(寛文13年4月3日)に、82歳で亡くなりました。

〇黄檗宗(おうばくしゅう)とは?

 臨済宗、曹洞宗と並ぶ日本の三禅宗の一つで、江戸時代前期に始まりました。開祖は、1654年(承応3)に来日した明僧の隠元隆琦で、江戸幕府4代将軍徳川家綱に謁見して、信頼を作り、幕府の許可を得て、1661年(寛文元)に、山城国宇治(現在の京都府宇治市)に黄檗山万福寺を創建します。
 宗風はほとんど臨済禅に一致しますが、明朝の念仏禅を伝えているのが特徴で、伽藍様式や読経、法要様式、法具法服などが明風です。
 弟子の木庵性が普及し、江戸に瑞聖寺を建立して、関東地方にも伝えました。一時衰退したものの、1851年(嘉永4) に良忠が出て復興に努めます。
 明治時代前期の1874年(明治7)に、一時臨済宗に合併されましたが、1876年(明治9)にふたたび独立し、1952年(昭和27)には、「宗教法人法」による認証を受けました。
 2000年(平成12)現在で、寺院463、信徒35万人を擁しているとされています。