ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年03月

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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、詩人・歌人与謝野寛(鉄幹)の亡くなった日です。
 本名は、与謝野寛といい、1873年(明治6)2月26日、京都府岡崎町(現在の京都市左京区)で、僧侶であった父・与謝野礼厳、母・初枝の4男として生まれました。
 幼くして仏典、漢籍、国書を学び、早くから才を見せ、1889年(明治22)に西本願寺で僧侶となります。
 その後、山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)の寺に赴き、徳山女学校の教員となり3年ほど勤めましたが、問題を起こして退職し、京都に戻ります。
 1892年(明治25)に上京し、落合直文の弟子となり、「浅香社」という結社を落合を中心にうち立てて、1894年(明治27)に歌論「亡国の音」を発表して、新しい和歌を提唱しました。
 1899年(明治32)には東京新詩社を創立、ここを母体としてまだ27歳の若さで、1900年(明治33)に『明星』を創刊することになります。さらに翌1901年、新詩社社友となって『明星』に短歌を発表していた当時23歳の晶子を妻としました。新派和歌運動に貢献し、口語詩を主張し、妻晶子と共に浪漫主義文学運動を進めます。
 1905年(明治38)には「鉄幹」の号を使わなくなり、1907年(明治40)には、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里を引き連れて九州を旅し、共同で紀行『五足の靴』を発表しました。
 1911年(明治44)には、晶子と共に、フランス、ロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪します。その後、1919年 (大正8) から1932年 (昭和7) まで13年間、慶応義塾大学の教授も勤めましたが、1935年(昭和10)3月26日に、東京において63歳で没しました。

〇与謝野寛(鉄幹)の主要な作品

・歌論『亡国の音(おん)』(1894年)
・詩歌集『東西南北』(1896年)
・詩歌集『天地玄黄(てんちげんこう)』(1897年)
・詩歌集『鉄幹子』(1901年)
・詩歌集『紫』(1901年)
・詩歌集『うもれ木』(1902年)
・詩歌集『毒草(どくぐさ)』与謝野晶子と共著(1904年)
・紀行『五足の靴』北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里と共著(1907年)
・詩歌集『(かし)の葉』(1910年)
・歌集『相聞(あいぎこえ)』(1910年)
・紀行『巴里(パリ)より』与謝野晶子と共著(1914年)、
・訳詩集『リラの花』(1914年)
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、全日本無産者芸術連盟(略称:ナップ)が結成された日です。
 この団体は、プロレタリア芸術運動(労働者階級に根差した芸術を確立しようとする運動)の団体で、エスペラント語のNippona Proleta Artista Federacioの頭文字を組み合わせた略称を用い、NAPF(ナップ)とも呼ばれ、機関紙『戦旗』 (1928年5月~1931年12月) を発行しました。
 1928年(昭和3)3月15日に、三・一五事件(社会主義運動への弾圧事件)が起こり、プロレタリア芸術運動も大きな打撃を受けます。しかし、それに対抗して活動を強化するため、それまで、プロレタリア芸術運動の分野で分裂していた「日本プロレタリア芸術連盟」(中野重治ら)と「前衛芸術家連盟」(蔵原惟人ら)が合同して、文学部、演劇部、美術部、音楽部、映画部、出版部の6専門部を設け、それらの領域でプロレタリア芸術運動を確立すべく活動しました。
 同年12月には、それぞれの部を独立させ、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)、「日本プロレタリア劇場同盟」(プロット)、「日本プロレタリア映画同盟」(プロキノ)、「日本プロレタリア美術家同盟」(ヤップ)、日本プロレタリア音楽家同盟(PM)などの諸組織の協議体となり、「全日本無産者芸術団体協議会」と改称したものの、略称ナップはそのまま使用しました。さらに、機関誌には新たに『ナップ』 (1930年9月~1931年11月) を創刊します。
 その後、いっそう弾圧が厳しくなる中で、1931年(昭和6)にプロレタリア文化団体の総結集をねらいとして、発展的に解消し、運動は「日本プロレタリア文化連盟」(略称:コップ)に引継がれました。

〇「全日本無産者芸術団体協議会」を構成した芸術団体

・「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)
・「日本プロレタリア劇場同盟」(プロット)――のち演劇同盟と改称
・「日本プロレタリア映画同盟」(プロキノ)
・「日本プロレタリア美術家同盟」(ヤップ)
・「日本プロレタリア音楽家同盟」(P・M)
・「日本プロレタリア写真同盟」(プロフォト)――のちに参加
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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、小説家梶井基次郎の亡くなった日です。
 梶井基次郎は、明治時代後期の1901年(明治34)2月17日に、大阪府大阪市西区土佐堀で、父・宗太郎、母・ヒサ(久)の次男として生まれました。
 父の転勤に伴い、東京、三重県鳥羽と居を移し、1913年(大正2)、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)へ入学します。1914年(大正3)に、一家の大阪への転居に伴い、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)へ転入し、1919年(大正8)には、第三高等学校甲類に進学しました。
 しかし、肺結核に罹り、休学して療養したりもしましたが、1924年(大正13)東京帝国大学英文学科に入学しています。
 翌年、中谷孝雄、外村繁らと同人誌「青空」を創刊し,「檸檬」、「城のある町にて」などを発表したものの、結核療養のため伊豆湯ケ島温泉に転地療養のやむなきに至りました。
 そこで、「蒼穹」、「冬の日」、「冬の蠅」などを執筆し、文壇の注目を集めるようになりましたが、病状が悪化したので、大阪へ帰郷し、1928年(昭和3)に大学の方は除籍となりました。
 帰郷後も、療養に勤めながら、執筆活動を続け、「愛撫」(1930年)、「交尾」(1931年)、「のんきな患者」(1932年)などを発表します。
 ところが療養の甲斐なく、1932年(昭和7)3月24日に、31歳の若さで亡くなりました。
 尚、没後の1934年(昭和9)に『梶井基次郎全集』が出版されています。

〇梶井基次郎の主要な作品

・『檸檬』(1925年)
・『城のある町にて』(1925年)
・『泥濘(でいねい)』(1925年)
・『路上』(1925年)
・『橡(とち)の花』(1925年)
・『冬の日』(1927年)
・『蒼穹(そうきゅう)』(1928年)
・『冬の蠅(はえ)』(1928年)
・『桜の樹の下には』(1928年)
・『愛撫(あいぶ)』(1930年)
・『闇の絵巻』(1930年)
・『交尾』(1931年)
・『のんきな患者』(1932年)
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定した日です。
 これは、太平洋戦争下の本土決戦に備えるため、防空、警防、空襲被害の復旧などに全国民を動員するために作られた組織で、「国民義勇隊組織ニ関スル件」として閣議決定されました。
 同年6月には、既存の「大政翼賛会」、「大日本婦人会」、「大日本翼賛壮年団」、「大日本青少年団」などを解散のうえ統合します。地域では、町内会・部落会を単位小隊とする市町村国民義勇隊となり、職場では、官公署・工場・会社などを単位小隊とする職域国民義勇隊とされました。
 さらに6月23日には、「義勇兵役法」が公布され、16~61歳の男子、17~41歳の女子をもって「国民義勇戦闘隊」が編成されます。
 しかし、敗戦後の8月21日に閣議で廃止決定され、9月2日に解散することになりました。
 以下に、、閣議決定「国民義勇隊組織ニ関スル件」(全文)を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「国民義勇隊組織ニ関スル件」(全文)1945年(昭和20)3月23日 閣議決定

現下ノ事態ニ即シ本土防衛態勢ノ完備ヲ目標トシ当面喫緊ノ防衛及生産ノ一体的飛躍強化ニ資スルト共ニ状勢急迫セル場合ハ武器ヲ執ツテ蹶起スルノ態勢ヘ移行セシメンガ為左記ニ依リ全国民ヲ挙ゲテ国民義勇隊ヲ組織セシメ其ノ挺身総出動ヲ強力ニ指導実施スルモノトス
尚之ガ円滑適正ナル実行ヲ期スル為地方行政協議会長ヲシテ関係軍管区司令官及鎮守府司令長官、警備府司令長官等ト緊密ニ連繋シ夫々事態ノ推移ト管内ノ実情ニ即スル如ク措置セシムルモノトス



一、目的
国民義勇隊ハ隊員各自ヲシテ旺盛ナル皇国護持ノ精神ノ下其ノ職任ヲ完遂セシメツツ戦局ノ要請ニ応ジ左ノ如キ業務ニ対シ活発ニ出動スルモノトス
(一)防空及防衛、空襲被害ノ復旧、都市及工場ノ疎開重要物資ノ輸送、食糧増産(林業ヲ含ム)等ニ関スル工事又ハ作業ニシテ臨時緊急ヲ要スルモノ
(二)陣地構築、兵器弾薬糧秣ノ補給輸送等陸海軍部隊ノ作戦行動ニ対スル補助
(三)防空、水火消防其ノ他ノ警防活動ニ対スル補助
尚状勢急迫セル場合ニ応ズル武装隊組織及其ノ出動ニ関シテハ特別ノ措置ヲ講ズルモノトス

二、組織
(一)国民義勇隊ハ官公署、会社、工場事業場等相当多数ノ人員ヲ擁スルモノニ付テハ当該職域毎ニ其ノ他ノモノニ付テハ一定ノ地域毎ニ之ヲ組織セシムルモノトス
尚学校ニ付テハ別ニ定ムル学徒隊ノ組織ニ依ルモ前項ノ業務ニ付テハ国民義勇隊トシテ出動スルモノトス
(二)国民義勇隊ニ参加セシムベキ者ハ老幼者、病弱者姙産婦等ヲ除クノ外可及的広汎ニ包含セシムルモノトス
註一、右ノ範囲ハ国民学校初等科修了以上ノ者ニシテ男子ニ在リテハ六十五歳以下女子ニ在リテハ四十五歳以下ノモノトス但シ右ノ年齢以上ノ者ニ在リテモ志願ニ依リ参加セシム
二、家庭生活ノ根軸タル女子ニ付テハ組織及運用ニ付特別ノ考慮ヲ払フモノトス
(三)国民義勇隊ハ一般ニ職域毎ニ組織スルモノハ職場、地域毎ニ組織スルモノハ一定ノ地域ニ依リ夫々一定ノ基準ニ従ヒ男女別ニ之ヲ編成セシムルモノトス
尚出動業務ノ必要ニ応ジ最モ有効適切ニ活動シ得ル如ク隊員ノ年齢、体力、職種等ヲ標準トシテ特別ノ出動編成ヲモ併セ考慮セシムルモノトス
(四)都道府県毎ニ国民義勇隊本部ヲ設ケ当該区域内国民義勇隊ヲ統轄セシム
本部長ハ地方長官トス
市区町村隊ノ隊長ハ市区町村長トス

三、運用
(一)国民義勇隊ノ出動ハ本部長又ハ其ノ定ムル所ニ従ヒ各隊長ニ於テ其ノ必要アリト認メテ自ラ之ヲ為ス場合ノ外出動要請ニ基キ之ヲ行フモノトス
(二)原則トシテ国民義勇隊ノ出動要請ハ地方長官ニ対シテ之ヲ為シ地方長官之ガ出動指令ヲ発スルモノトス
(三)国民義勇隊ハ軍部隊ノ補助ノ為出動スル場合ハ当該陸海軍部隊長ノ指揮ヲ受ケ警防活動ノ補助ノ為出動スル場合ハ当該官署長ノ指揮ヲ受クルモノトス
其ノ他ノ業務ノ為出動スル場合ハ当該工事又ハ作業ノ施行者ノ要請ニ従ヒ行動スルモノトス

四、其ノ他
(一)国民義勇隊ノ出動ニ要スル経費ハ其ノ目的ニ応ジ軍、政府、公共団体又ハ其ノ出動ノ受益者ニ於テ負担スルヲ原則トス
(二)国民義勇隊ノ組織運用等ニ関シテハ在郷軍人会、警防団等ト互ニ齟齬スル所ナカラシメ彼此両全ヲ期スル如ク配意スルモノトス
(三)農山漁村ニ在リテハ食糧増産等ニ関スル農林水産業者ノ活動ヲ徹底セシムルヲ旨トシ国民義勇隊ノ組織運用等ニ当リテハ之ト齟齬セザル様特ニ配意スルモノトス
(四)本組識ノ指導的要員ニ付テハ官民有識者ノ挺身協力ヲ予定ス

備考
一、本件ト表裏シテ軍隊ニ於テモ警防、建設、生産、輸送等ニ対シ積極的ニ応援協力スルモノトス
二、国民義勇隊員タル農林水産業者ノ目的第一項中ノ食糧増産等ニ対スル出動ハ現行制度ニ依ルモノトス
三、本件ニ関スル運用上必要ナル細目ハ別ニ之ヲ定ム
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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、童話作家新見南吉の亡くなった日です。
 新美南吉は、1913年(大正2)7月30日に、愛知県知多郡半田町(現在の半田市)で畳屋を営む父・渡邊多蔵、母・りゑの次男として生まれましたが、本名は正八といいました。
 半田第二尋常小学校(現在の半田市立岩滑小学校)に入学しましたが、1921年(大正10)に新美家の養子となります。1926年(大正15) に旧制愛知県立半田中学校(現在の半田高校)へ入学し、『少年俱楽部』『愛誦』などの雑誌に投稿したり、級友たちと同人誌「オリオン」を出すなど文学にいそしみました。
 1931年(昭和6)の『赤い鳥』1月号に童話「ごん狐」が掲載され、同年4月に上京して、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)英語部文科文学に入学します。在学中に小説や童謡、童話を書いたものの、あまり発表の機会には恵まれず、喀血をして体調を崩したりしました。
 1936年(昭和11)に卒業後、貿易商に勤務しましたが、2度目の喀血をして療養のために帰郷し、不遇な時を過ごします。
 1938年(昭和13)に、安城高等女学校(現在の愛知県立安城高校)教諭となり、『哈爾賓日日新聞』に「最後の胡弓ひき」など、『新児童文化』に「川」「嘘)」などの童話を発表しました。1941年(昭和16)に『良寛物語 手毬と鉢の子』を出版したりしましたが、体調が悪化して欠勤するようになり、童話は書き続けて、翌年に童話集『おぢいさんのランプ』を刊行たものの、1943年(昭和18)には退職のやむなきに至ります。
 そして、1943年(昭和18)3月22日に、結核のために29歳の若さで亡くなりました。死後の9月に、第2童話集『牛をつないだ椿の木』、第3童話集『花のき村と盗人たち』が刊行されています。
 尚、1994年(平成6)郷里の愛知県半田市に、「新見南吉記念館」が開館しました。

〇新見南吉の主要な作品

<童話集>

*『おぢいさんのランプ』 有光社(1942年10月10日刊)
 ・「川」 (『新児童文化』第1冊・1940年発表)
 ・「嘘」 (『新児童文化』第3冊・1941年発表)
 ・「ごんごろ鐘」
 ・「久助君の話」 (『哈爾賓日々新聞』・1939年発表)
 ・「うた時計」 (『少国民の友』・1942年発表)
 ・「おぢいさんのランプ」
 ・「貧乏な少年の話」

*『牛をつないだ椿の木』 大和書店(1943年9月10日刊)
 ・「かぶと虫<小さい太郎の悲しみ>」
 ・「手袋を買いに」
 ・「草」
 ・「狐」
 ・「牛をつないだ椿の木」 (『少国民文化』・1943年発表)
 ・「耳」 (『少国民文化』・1943年発表)
 ・「疣」

*『花のき村と盗人たち』 帝国教育出版部(1943年9月30日刊)
 ・「ごん狐」 (『赤い鳥』・1932年発表)
 ・「百姓の足・坊さんの足」
 ・「のら犬」 (『赤い鳥』・1932年発表)
 ・「和太郎さんと牛」
 ・「花のき村と盗人たち」
 ・「正坊とクロ」 (『赤い鳥』・1931年発表)
 ・「鳥右ヱ門諸国をめぐる」

<伝記小説>

・『良寛物語 手毬と鉢の子』 学習社(1941年10月1日刊)
・『大岡越前守』学習社(1944年6月30日刊)

<その他>

・小説集『花を埋める』 (1946年刊)
・詩集『墓碑銘』 (1962年刊)
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