この大火は、3月8日の未明(午の下刻)に油小路通姉小路下る宗林町の銭屋市兵衛宅より出火し、おりからの西南の風にあおられて延焼し、北は今出川通、南は錦小路通、東は鴨川まで417ヶ町に及び、翌日に鎮火しました。
この結果、禁裏御所(上皇・法皇の御所)・仙洞御所(上皇・法皇の御所)・女院御所・東宮御所など重要な建物を含めて、公家屋敷95軒、家屋1万351軒、寺社119ヶ所、大名屋敷21軒が焼失したとされています。
京都市街の多くが焼亡したので、復興にあたっては、防火対策を重視し、御所周辺の公家町を拡散、これに伴って、それまでは農地だった鴨川の東岸に、町屋や寺院等を移転させるなどしました。
これが、現在の京都のもとになる市街地再編になったといわれています。
その後も、江戸時代中に1788年(天明8年1月30日)の歴史上最大といわれる「天明の大火」、1864年(元治元年7月19日)に「元治の大火」があり、併せて、近世の「京都三大大火」と呼ばれるようになりました。
しかし、下記のように、江戸の大火と比べると被害は桁違いで、江戸の方が人口が密集し、被害が多大だったことがわかります。
〇江戸時代の大火
・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830–3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」