ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年01月

イメージ 1

 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定された日です。
 その選定理由としては、以下の4つが挙げられていました。
‘盡个肇茱係兇覆匹亮然環境が、ヨシ産業などの生業や内湖と共生する地域住民の生活と結びつき、価値の高い文化的景観を形成していること。
干拓や圃場整備によって内湖の多くが農地化され、湿地生態系の衰退やヨシ葺屋根等の減少に伴う景観の改変が著しく、文化的景観の変容が危惧されていることから、早急な保護が必要であること。
J顕重景観を未来に引き継ぐため、「近江八幡市風景づくり条例」を制定し、これに基づく「風景づくり協定」や「風景づくり委員会」等への地域住民の参加・参画を通じて、文化的景観の保護に向けた積極的な取組みを図ろうとしていること。
そ斗彿顕重景観になるため、近江八幡市は景観行政団体となり、景観計画を策定するなど、必要な条件が整ったこと。
 また、その後追加の申出が行われて、2006年(平成18)7月28日と2007年(平成19)7月26日に、集落・里山・農地等が追加選定を受け、合計で約354.0haの地域となっています。

〇重要文化的景観とは?

 2004年(平成16)6月に、「文化財保護法」が改正・公布され、翌年4月に施行されたのですが、新たに、第2条1項5号で、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」と“文化的景観”が定義されました。
 その上で、都道府県または市町村の申し出に基づき、当該都道府県または市町村が定める景観法上の景観計画区域または景観地区内にあるもので、かつ、文部科学大臣が、文部科学省令で定める基準に照らして当該都道府県または市町村がその保存のため必要な措置を講じている“文化的景観”のうち、とくに重要なものを選定し、“重要文化的景観”と定めたのです。その選定基準は以下のようになっています。
(1)地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された次に掲げる景観地のうち我が国民の基盤的生活又は生業の特色を示すもので典型的なもの又は独特のもの
  1.水田・畑地などの農耕に関する景観地
  2.茅野・牧野などの採草・放牧に関する景観地
  3.用材林・防災林などの森林の利用に関する景観地
  4.養殖いかだ・海苔ひびなどの漁ろうに関する景観地
  5.ため池・水路・港などの水の利用に関する景観地
  6.鉱山・採石場・工場群などの採掘・製造に関する景観地
  7.道・広場などの流通・往来に関する景観地
  8.垣根・屋敷林などの居住に関する景観地
(2)前項各号に掲げるものが複合した景観地のうち我が国民の基盤的な生活又は生業の特色を示すもので典型的なもの又は独特なもの
 この背景には、近年の開発により、地域の個性が喪失されていく中で、棚田や里山、屋敷林、ため池などの人々の生活や風土に深く結合し、その地域独特の景観の重要性が再認識されると共に、それらの保護の必要性が高まったことによります。“重要文化的景観”に選定されると、現状変更やその保存に影響を及ぼす行為をしようとする場合、「文化財保護法」により、文化庁長官に届け出ることが必要となりました。また、文化的景観の保存活用のために行われるさまざまな事業に対しては、国からその経費が補助されます。
 2006年(平成18)1月26日、“重要文化的景観”の第1号として、滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」が国の選定を受けて以降、2017年(平成29)10月末時点で、58件を数えるようになりました。
 尚、2017年11月17日に国の文化審議会は、「最上川上流域における長井の町場景観」(山形県長井市)、「葛飾柴又の文化的景観」(東京都葛飾区)、「智頭の林業景観」(鳥取県智頭町)の3件を重要文化的景観に選定するよう文部科学相に答申しましたが、その後官報告示を経て正式に選定される見込みです。

☆重要文化的景観一覧(2017年10月末現在 58件)

・「アイヌの伝統と開拓による沙流川流域の文化的景観」(北海道沙流郡平取町) 2007年7月26日選定
・「一関本寺の農村景観」(岩手県一関市) 2006年7月28日選定
・「遠野」(岩手県遠野市) 2008年3月28日選定
・「最上川の流通・往来及び左沢町場の景観」(山形県西村山郡大江町) 2013年3月27日選定
・「利根川・渡良瀬川合流域の水場景観」(群馬県邑楽郡板倉町) 2011年9月21日選定
・「佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観」(新潟県佐渡市) 2011年9月21日選定
・「佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観」(新潟県佐渡市) 2015年10月7日選定
・「金沢の文化的景観 城下町の伝統と文化」(石川県金沢市) 2010年2月22日選定
・「大沢・上大沢の間垣集落景観」(石川県輪島市) 2015年10月7日選定
・「小菅の里及び小菅山の文化的景観」(長野県飯山市) 2015年1月26日選定
・「姨捨の棚田」(長野県千曲市) 2010年2月22日選定
・「長良川中流域における岐阜の文化的景観」(岐阜県岐阜市) 2014年3月18日選定
・「近江八幡の水郷」(滋賀県近江八幡市) 2006年1月26日選定
・「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」(滋賀県高島市) 2008年3月28日選定
・「高島市針江・霜降の水辺景観」(滋賀県高島市 2010年8月5日選定
・「大溝の水辺景観」(滋賀県高島市) 2015年1月26日選定
・「東草野の山村景観」(滋賀県米原市) 2014年3月18日選定
・「菅浦の湖岸集落景観」(滋賀県長浜市) 2014年10月6日選定
・「京都岡崎の文化的景観」(京都府京都市) 2015年10月7日選定
・「宇治の文化的景観」(京都府宇治市) 2009年2月12日選定
・「宮津天橋立の文化的景観」(京都府宮津市) 2014年3月18日選定
・「日根荘大木の農村景観」(大阪府泉佐野市) 2013年10月17日選定
・「生野鉱山及び鉱山町の文化的景観」(兵庫県朝来市) 2014年3月18日選定
・「奥飛鳥の文化的景観」(奈良県高市郡明日香村) 2011年9月21日選定
・「蘭島及び三田・清水の農山村景観」(和歌山県有田郡有田川町) 2013年10月17日選定
・「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」(島根県仁多郡奥出雲町) 2014年3月18日選定
・「樫原の棚田及び農村景観 徳島県勝浦郡上勝町) 2010年2月22日選定
・「遊子水荷浦の段畑」(愛媛県宇和島市) 2007年7月26日選定
・「奥内の棚田及び農山村景観」(愛媛県北宇和郡松野町) 2017年2月9日選定
・「四万十川流域の文化的景観 源流域の山村」(高知県高岡郡津野町) 2009年2月12日選定
・「四万十川流域の文化的景観 上流域の山村と棚田」(高知県高岡郡檮原町) 2009年2月12日選定
・「四万十川流域の文化的景観 上流域の農山村と流通・往来」(高知県高岡郡中土佐町) 2009年2月12日選定
・「久礼の港と漁師町の景観」(高知県高岡郡中土佐町) 2011年2月7日選定
・「四万十川流域の文化的景観 中流域の農山村と流通・往来」(高知県高岡郡四万十町) 2009年2月12日選定
・「四万十川流域の文化的景観 下流域の生業と流通・往来」(高知県四万十市) 2009年2月12日選定
・「求菩提の農村景観」(福岡県豊前市) 2012年9月19日選定
・「蕨野の棚田」(佐賀県唐津市) 2008年7月28日選定
・「長崎市外海の石積集落景観」(長崎県長崎市) 2012年9月19日選定
・「佐世保市黒島の文化的景観」(長崎県佐世保市) 2011年9月21日選定
・「平戸島の文化的景観」(長崎県平戸市) 2010年2月22日選定
・「五島市久賀島の文化的景観」(長崎県五島市) 2011年9月21日選定
・「小値賀諸島の文化的景観」(長崎県北松浦郡小値賀町) 2011年2月7日選定
・「新上五島町北魚目の文化的景観」(長崎県南松浦郡新上五島町) 2012年1月24日選定
・「新上五島町崎浦の五島石集落景観」(長崎県南松浦郡新上五島町) 2012年9月19日選定
・「三角浦の文化的景観」(熊本県宇城市) 2015年1月26日選定
・「天草市﨑津・今富の文化的景観」(熊本県天草市) 2011年2月7日選定
・「通潤用水と白糸台地の棚田景観」(熊本県上益城郡山都町) 2008年7月28日選定
・「阿蘇の文化的景観 阿蘇北外輪山中央部の草原景観」(熊本県阿蘇市)2017年10月13日選定
・「阿蘇の文化的景観 南小国町西部の草原及び森林景観」(熊本県阿蘇郡南小国町)2017年10月13日選定
・「阿蘇の文化的景観 涌蓋山麓の草原景観」(熊本県阿蘇郡小国町)2017年10月13日選定
・「阿蘇の文化的景観 産山村の農村景観」(熊本県阿蘇郡産山村)2017年10月13日選定
・「阿蘇の文化的景観 根子岳南麓の草原景観」(熊本県阿蘇郡高森町)2017年10月13日選定
・「阿蘇の文化的景観 阿蘇山南西部の草原及び森林景観」(熊本県阿蘇郡南阿蘇村)2017年10月13日選定
・「阿蘇の文化的景観 阿蘇外輪山西部の草原景観」(熊本県阿蘇郡西原村)2017年10月13日選定
・「別府の湯けむり・温泉地景観」(大分県別府市) 2012年9月19日選定
・「小鹿田焼の里」(大分県日田市) 2008年3月28日選定
・「田染荘小崎の農村景観」(大分県豊後高田市) 2010年8月5日選定
・「酒谷の坂元棚田及び農山村景観」(宮崎県日南市) 2013年10月17日選定
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41.0℃を記録した日です。
 この日は、日本に最大級の寒波が到来していて、北海道の内陸部上川盆地の中心に位置している上川測候所(現在の旭川地方気象台)で、観測された記録でした。これは、富士山頂で観測されている最低気温(-38.0℃)をも上回っています。ちなみにこの寒波時、青森県の八甲田山では、青森歩兵第5連隊による雪中行軍の訓練が行われており、行軍中の210名が猛吹雪と厳しい寒さに遭遇、内199名が凍死し、生存者はわずか11名という大惨事(八甲田雪中行軍遭難事件)が起きました。尚、世界の最低気温の記録は、1983年7月21日に南極大陸ボストーク基地で観測された-89.2℃です。

〇最低気温とは?

 日最低気温ともいい、通常は1日の連続した気温のうちの最低の値をいいます。つまり、0時~24時までに観測された気温の最低値のことで、晴天の日では3時から9時の間に観測されることが多くいのですが、、その日の気圧配置によっては昼間に観測されることもありました。気象庁が発表している最低気温は、正式な気象官署やアメダス(自動気象データ収集システム)による観測の値です。

☆日本の最低気温のベスト5(気象官署・アメダス観測点による)

・1位 -41.0℃ [1902年(明治35)1月25日] 北海道石狩国上川郡旭川町(現在の旭川市)
・2位 -38.2℃ [1902年(明治35)1月26日] 北海道河西郡下帯広村(現在の帯広市)
・3位 -38.1℃ [1978年(昭和53)2月17日] 北海道旭川市江丹別
・4位 -38.0℃ [1981年(昭和56)2月27日] 富士山頂
・5位 -37.9℃ [1978年(昭和53)2月17日] 北海道枝幸郡枝幸町歌登

注:同一地点での記録は、省略しているため旭川では、2位を上回る記録を全部で6回観測しています。

<参考記録> (正式な観測点以外の記録)

・-44.0℃ [1931年(昭和6)1月27日] 北海道枝幸郡枝幸村(現在の枝幸町)上幌別(北海道森林気象観測所)
・-41.5℃ [1931年(昭和6)1月27日] 北海道天塩国中川郡美深町(区内観測所)
・-41.2℃ [1978年(昭和53)2月17日] 北海道雨竜郡幌加内町母子里(北海道大学雨竜演習林内)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代前期の1869年(明治2)に、詩人・随筆家・評論家大町桂月(おおまちけいげつ)の生まれた日ですが、新暦では3月6日となります。
 大町桂月は、1869年(明治2年1月24日)に、土佐国高知北門筋(現在の高知県高知市永国寺町)で、元土佐藩士の父大町通の3男として生まれましたが、本名は芳衛(よしえ)と言いました。
 1880年(明治13)に上京し、兄のもとで勉強して、1887年(明治20)に、第一高等中学校へ入学します。この頃から文学に親しみ、1893年(明治26)には帝国大学国文科に進学しました。
 在学中に『帝国文学』創刊とともに編集委員となり、評論や新体詩などを発表します。1896年(明治29)に、3者による詩文集『花紅葉』を刊行し、一定の評価を得ました。
 卒業後は、1899年(明治32)に島根県簸川中学(現在の大社高校)に赴任しましたが、翌年に博文館に招かれ上京、『太陽』『中学世界』『文芸倶楽部』などに文芸時評、評論、紀行文を執筆し、美文家として知られました。
 硬派の評論家として高山樗牛と並び称され、1904年(明治37)9月号に『明星』に発表された与謝野晶子の詩「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』10月号誌上で非難、これに対して与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」と反論したことは有名です。
 1906年(明治39)に博文館 を退社し、1910年(明治43)から冨山房の雑誌『学生』を主宰、青少年の修養に尽力しました。
 終生酒と旅を愛し、各地を訪れて紀行文を発表しますが、十和田湖に魅せられて、晩年は青森県の蔦温泉に居を移します。しかし、1925年(大正14)6月10日に、蔦温泉において、56歳で亡くなりました。

〇大町桂月の主要な著作

<評論集>
・『文学小観』(1900年)
・『我が文章』
・『日本文明史』(1907年)
・『日本文章史』(1907年)
・『筆のしづく』3巻(1903~1908年)

<韻文集>
・『美文韻文 花紅葉(はなもみじ)』共著 (1896年)
・『美文韻文 黄菊白菊』(1898年)

<紀行文>
・『一蓑一笠』博文館(1901年2月)
・『行雲流水』博文館(1907年4月)
・『奥羽一周記』(1908年)
・『関東の山水』 博文館(1909年)
・『日本の山水』(1915年)

<翻訳>
・『ポンペイ最後の日』(1915年)

<全集>
・『桂月全集』全12巻 (1922~1923年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代の1890年(明治23)に、教育者・キリスト教指導者新島襄(にいじまじょう)の亡くなった日です。
 新島襄は、江戸時代後期の1843年(天保14年1月14日)に、江戸神田の安中藩江戸屋敷で、安中藩士の父新島民治、母とみの長男として生まれましたが、幼名を七五三太(しめた)といいました。
 1856年(安政3)から蘭学を学び始め、1860年(万延元)には、軍艦操練所に入り、航海実習に従事します。
 欧米文明とその宗教に感銘して脱藩後、1864年(元治元)に、国禁を犯してアメリカ船で箱館から海外に密航しました。
 アメリカ合衆国に渡り、フィリップス・アカデミー英語科を経て、1870年(明治3)にアーモスト大学を卒業し、日本人としてはじめて学士号(理学士)を取得します。その後、アンドーバー神学校に入り、1872年(明治5)に訪米した岩倉遣外使節団の案内役として随行し、欧米の教育事情を視察しました。
 1874年(明治7)に神学校を卒業後、ボストンの教会で按手礼を受けて牧師となり、キリスト教に基づく精神主義教育を行なう学校を日本に設立するために帰国します。
 1875年(明治8)に、京都府顧問山本覚馬らの協力を得て、同志社英学校を京都に創設しました。1877年(明治10)には、同志社女学校も設立すると共に、国内の伝道にも力を入れます。
 1884年(明治17)4月から翌年12月まで欧米を巡歴し、帰国後、仙台の東華学校や京都看病婦学校を開校、同志社病院の開院にも携わりました。
 しかし、1890年(明治23)1月23日に大学設立運動途上、神奈川県大磯において、46歳で客死します。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、平成時代の1993年 (平成5)に、小説家・劇作家・演出家阿部公房(あべこうぼう)の亡くなった日です。
 阿部公房は、大正時代の1924年 (大正13) 3月7日に、医師であった父安部浅吉と母よりみの長男として、東京府北豊島郡滝野川町 (現在の東京都北区西ヶ原) に生まれましたが、本名は、「きみふさ」と読みます。
 生後8ヶ月で、家族と共に満洲に渡り、奉天市で少年期を過ごします。旧制奉天第二中学校卒業後、日本に帰国して旧制成城高等学校(現在の成城大学) 理科乙類に入学しました。1943年 (昭和18) 、戦時下による繰上げ卒業後、東京帝国大学医学部医学科に入学します。
 一時奉天に戻っていた時に、敗戦を迎え、父が病気で亡くなって、苦労をしながら、1946年(昭和21)に引揚船で帰国しました。その後、大学に復学し、『無名詩集』 を自費出版したりしながら、1948年 (昭和23)に、東京大学医学部を卒業しましたが、医師にはならないことになります。
 花田清輝らの「夜の会」に参加、『近代文学』同人となり本格的な作家活動を始め、『終りし道の標べに』によって作家デビューとなりました。
 1950年(昭和25)に『赤い繭』で戦後文学賞を受賞、翌年には、『壁-S・カルマ氏の犯罪』 で芥川賞を受賞して注目を浴びます。
 1952年(昭和27)に『人民文学』に参加し、『飢餓同盟』(1954年)、戯曲『制服』(1954年)、『けものたちは故郷をめざす』 (1957年) 、『第四間氷期』(1959年)、『石の眼』 (1960年)などの前衛的手法の作品を発表しました。
 1962年(昭和37)の「砂の女」で、翌年読売文学賞を受賞、1968年(昭和43)にはフランス最優秀外国文学賞も受け、同書は世界各国で翻訳されて国際的作家となります。
 それからは、映画やテレビドラマでも活躍し、晩年はノーベル文学賞の有力候補とされたましたが、1993年 (平成5)1月22日に、東京において、68歳で亡くなりました。

〇阿部公房の主要な作品

<小説>
・『終りし道の標べに』 (真善美社、1948年)
・『壁』 (月曜書房、1951年)
・『闖入者』 (未來社、1952年)
・『飢えた皮膚』 (ユリイカ、1952年)
・『飢餓同盟』 (大日本雄弁会講談社)
・『R62号の発明』 (山内書店、1956年)
・『けものたちは故郷をめざす』 (大日本雄弁会講談社、1957年)
・『第四間氷期』 (講談社、1959年)
・『石の眼』 (新潮社、1960年)
・『砂の女』 (新潮社、1962年)
・『他人の顔』 (講談社、1964年)
・『水中都市』 (新潮社、1964年 )
・『無関係な死』 (新潮社、1964年)
・『榎本武揚』 (中央公論社、1965年)
・『終りし道の標べに (改稿版) 』(冬樹社、1965年)
・『燃えつきた地図』 (新潮社、1967年)
・『人間そっくり』 (早川書房、1967年)
・『夢の逃亡』 (徳間書店、1968年)
・『箱男』 (新潮社、1973年)
・『洪水』 (プレス・ビブリオマーヌ、1973年)
・『事業』 (プレス・ビブリオマーヌ、1974年)
・『密会』 (新潮社、1977年)
・『方舟さくら丸』 (新潮社、1984年)
・『カーブの向う・ユープケッチャ』 (新潮文庫、1988年)
・『カンガルー・ノート』 (新潮社、1991年)
・『飛ぶ男』 (新潮社、1994年)

<戯曲>
・『どれい狩り・快速船・制服』 安部公房創作劇集 (青木書店、1955年)
・『幽霊はここにいる』 (新潮社、1959年 )
・『友達・榎本武揚』 (河出書房、1967年)
・『棒になった男』 (新潮社、1969年)
・『未必の故意』 (新潮社、1971年)
・『愛の眼鏡は色ガラス』 (新潮社、1973年)
・『緑色のストッキング』 (新潮社、1974年)
・『ウエー 新どれい狩り』 (新潮社、1975年)

<評論・随筆>
・『東欧を行く ハンガリア問題の背景』 (大日本雄弁会講談社、1957年)
・『猛獣の心に計算器の手を』 (平凡社、1957年)
・『裁かれる記録 映画芸術論』 (講談社ミリオン・ブックス、1958年)
・『砂漠の思想』 (講談社、1965年)
・『内なる辺境』 (新潮社、1971年)
・『反劇的人間』 (中公新書、1973年)
・『手について』 (プレス・ビブリオマーヌ、1973年)
・『発想の周辺』 (新潮社 1974年)
・『笑う月』 (新潮社、1975年 )
・『都市への回路』 (中央公論社、1980年)
・『死に急ぐ鯨たち』 (新潮社、1986年)

<詩集>
・『無名詩集』 (自費出版、1947年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ