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 今日は、奈良時代の712年(和銅5)に、太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上された日ですが、新暦では3月9日となります。
 『古事記』は、奈良時代の元明天皇の勅命により、太安万侶が、稗田阿礼のそらんじていた帝紀・旧辞などを筆録した日本最古の歴史書で、712年(和銅5)元明天皇に献進されました。3巻からなり、内容は上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいます。
 江戸時代後期から偽書説がありますが、学界の大勢はこれを認めるに至っておらず、近年はあまり言われなくなってきました。
 以下に、『古事記』の序文(原文・読み下し文・現代語訳)を全部載せておきます。

☆『古事記』の序文

古事記上卷 幷序

 臣安萬侶言。
 夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。
 寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。
 是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。
 曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。
 於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。
 伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育、御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、日浮重暉、雲散非烟、連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。
 於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。
 大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

 和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

<読み下し文>

 臣安万侶言さく、
 夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分れて、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為りき。所以に幽顕に出入りして、日月目を洗うに彰れ、海水に浮沈して、神祗身を漱ぐに呈る。故、太素は杳冥なれども、本教によりて而土を孕み嶋を産みし時を識り、元始は綿?なれども、先聖に頼りて、神を生み人を立てし世を察る。
 寔に知る、鏡を懸け、珠を吐きて、百王相續ぎ、剣を喫み釼蛇を切りて、萬神蕃息せしことを。安河に議りて天下平け、小濱に論ひて国土を清めき。
 是を以ちて番仁岐命。初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津嶋に經歴したまひき。化熊川を出でて。天釼を高倉に獲、生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき。?を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏はしむ。即ち夢に覺りて神祇を敬ひたまひき。所以に賢后と称す。烟を望みて黎元を撫でたまひき。今に聖帝と云ふ。境を定めて邦を開きて、近淡海を制め、姓を正して氏を撰び、遠飛鳥を勒めたまいき。歩驟各異に、文質同じからずといえども、莫不古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩し。今に照らして典教を絶えむとするに補はずということなし。
 飛鳥の清原の大宮に、大八洲にしらしめし天皇の御世に曁りて、濳龍元を体し。?雷期に応じき。夢の歌を聞きて而業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまいひき。然れども天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共洽わりて、東国に虎歩したまいき。皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟のごとく起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰移さずして、氣?自ら清まりき。乃ち牛を放ち馬を息へ。愷悌して華夏に帰り。旌を巻き戈をおさめ、舞詠して都邑に停まりたまひき。
 歳大梁に次り、月侠鍾に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。乾符を握りて六合を摠べ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二氣の正しきに乗り、五行の序を齊へ、神理を設けて俗を奬め、英風を敷きて国を弘めたまいき。重加、智海は浩瀚として、潭く上古を探り、心鏡は?煌として、明らかに先代を観たまひき。
 ここに天皇詔りたまわく、「朕聞く、諸家のもてる帝紀および本辭、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふと、今の時にあたり、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨、滅びなむとす。これすなわち邦家の經緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定實めて、後の葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。時に舍人、有り。姓は稗田、名は阿禮。年はこれ廿八。人と爲り聰明にして、。目に度れば、口に誦み、耳に拂るれば心に勒す。即ち阿禮に勅語して、帝皇の日繼及び、先代の旧辞を誦に習はしめたまひき。然れども運移り世異りて。未だその事を行ひたまはざりき。
 伏して惟うに皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被び、玄扈に坐して化は船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散ちりて烟に非ず。柯を連ね穗を并す瑞、史書すことを絶たず、烽を列ね訳を重むる貢、府空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠りたまへりと謂ひつべし。
 ここに舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れると正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮が誦む所の勅語の舊辭を撰録して、獻上せしむといへれば、謹みて詔旨のまにまに、子細に採り摭ひぬ。
 然れども上古の時は、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し。已に訓によりて述べたるは、詞心におよばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣さらに長し。是をもちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち、辭理の見えがたきは、注を以ちて明かにし、意况の解り易きは更に注せず。また姓おきて日下を玖沙訶といひ、名におきて帶の字を多羅斯といふ。かくの如き類は、本のままに改ず。大抵記す所は、天地の開闢より始めて。于小治田の御世に訖る。故、天御中主神以下、日子波限建鵜
草葺不合尊以前を上卷となし、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前を中卷となし、大雀皇帝以下、小治田大宮以前を下卷となし、并せて三卷に録して、謹みて獻上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
 和銅五年正月二十八日。
 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上。
 
<現代語訳>

 わたくし安萬侶が申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。
 これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。
 飛鳥の清原の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。
 謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王よりも高く聞え御徳は殷の湯王よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。

 和銅五年正月二十八日
 正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

     現代語訳は、武田祐吉「古事記-現代語訳古事記-」(青空文庫)による。