大町桂月は、1869年(明治2年1月24日)に、土佐国高知北門筋(現在の高知県高知市永国寺町)で、元土佐藩士の父大町通の3男として生まれましたが、本名は芳衛(よしえ)と言いました。
1880年(明治13)に上京し、兄のもとで勉強して、1887年(明治20)に、第一高等中学校へ入学します。この頃から文学に親しみ、1893年(明治26)には帝国大学国文科に進学しました。
在学中に『帝国文学』創刊とともに編集委員となり、評論や新体詩などを発表します。1896年(明治29)に、3者による詩文集『花紅葉』を刊行し、一定の評価を得ました。
卒業後は、1899年(明治32)に島根県簸川中学(現在の大社高校)に赴任しましたが、翌年に博文館に招かれ上京、『太陽』『中学世界』『文芸倶楽部』などに文芸時評、評論、紀行文を執筆し、美文家として知られました。
硬派の評論家として高山樗牛と並び称され、1904年(明治37)9月号に『明星』に発表された与謝野晶子の詩「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』10月号誌上で非難、これに対して与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」と反論したことは有名です。
1906年(明治39)に博文館 を退社し、1910年(明治43)から冨山房の雑誌『学生』を主宰、青少年の修養に尽力しました。
終生酒と旅を愛し、各地を訪れて紀行文を発表しますが、十和田湖に魅せられて、晩年は青森県の蔦温泉に居を移します。しかし、1925年(大正14)6月10日に、蔦温泉において、56歳で亡くなりました。
〇大町桂月の主要な著作
<評論集>
・『文学小観』(1900年)
・『我が文章』
・『日本文明史』(1907年)
・『日本文章史』(1907年)
・『筆のしづく』3巻(1903~1908年)
<韻文集>
・『美文韻文 花紅葉(はなもみじ)』共著 (1896年)
・『美文韻文 黄菊白菊』(1898年)
<紀行文>
・『一蓑一笠』博文館(1901年2月)
・『行雲流水』博文館(1907年4月)
・『奥羽一周記』(1908年)
・『関東の山水』 博文館(1909年)
・『日本の山水』(1915年)
<翻訳>
・『ポンペイ最後の日』(1915年)
<全集>
・『桂月全集』全12巻 (1922~1923年)