狩野探幽は、1602年(慶長7年1月14日)に、狩野孝信(狩野永徳の次男)の長男として京都で生まれましたが、幼名は采女(うねめ)、名は守信といいました。
幼少の頃より画才を発揮し、1612年(慶弔17)に江戸に下向する途中、駿府で徳川家康に拝謁し、1617年(元和3)には、徳川秀忠に召されて、江戸幕府の御用絵師となります。
1619年(元和5)に、女御御対面所三之間障壁画を描き、1621年(元和7)には、江戸城鍛冶橋門外に1,033坪の屋敷と所領200石を拝領しました。
1623年(元和9)に、弟安信に狩野宗家を譲り、自らは別家して江戸に鍛冶橋狩野家を開きます。その後、二条城、大坂城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、御所、日光東照宮の障壁画制作を指導し、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作しました。
1635年(寛永12)には、剃髪して探幽と号し、3年後には法眼に叙せられたものの、1656年(明暦2)の明暦の大火によって屋敷を焼失しました。
それからも、瀟洒、淡白な画風を特色とし、水墨画・彩色画など幅広く活躍して、1662年(寛文2)には、画家として最高位の宮内卿法印にまでなります。
こうして江戸狩野派繁栄の基礎を築きましたが、1674年(延宝2年10月7日)に、江戸において、72歳で亡くなりました。
〇狩野探幽の代表作
・『東照宮縁起絵巻』日光東照宮蔵(1617年)
・二条城二の丸御殿障壁画(1626年)
・名古屋城本丸御殿障壁画(1633年)
・南禅寺本坊小方丈『竹林群虎図』襖絵(寛永年間後期)
・『東照権現像』輪王寺蔵(1639年)
・『佐久間将監像』個人蔵(1641年)
・大徳寺本坊方丈の『山水図』襖絵(1648年)
・『四季松図屏風』大徳寺蔵(寛永末年頃)
・酬恩庵方丈障壁画(1650年)
・『雲龍図』妙心寺蔵(1656年)
・『鵜飼図屏風』(東京・大倉集古館蔵)