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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、政治家・教育者大隈重信の亡くなった日です。
 大隈重信は、江戸時代後期の1838年(天保9年2月16日)に、肥前国佐賀(現在の佐賀県佐賀市)に、佐賀藩砲術長の父大隈信保、母三井子の長男として生まれましたが、幼名は八太郎といいました。
 7歳で藩校弘道館に入学しましたが、教育方針に不満を持ち、学制改革を試みるものの、退学するに至ります。1856年(安政2)に、蘭学寮に移って西欧の学問に接し、1865年(元治2)には長崎に出て、アメリカ人宣教師フルベッキに英学を学びました。
 また、京都や長崎を往来して、尊王攘夷派として活動し、1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしますが、捕らえられて謹慎処分を受けます。
 明治政府成立時の1868年(明治元)に、参与兼外国事務局判事に登用され、外国官副知事に昇進、翌年会計官副知事、次いで大蔵大輔として手腕を発揮し、1870年(明治3)には参議となりました。その中で、秩禄処分、地租改正、殖産興業政策などを推進しましたが、明治十四年の政変で下野することとなります。
 1882年(明治15)に、立憲改進党を結成して総理となり、同年に東京専門学校(後の早稲田大学)を創立し、青年教育にも当たりました。1888年(明治21)に外務大臣となり、条約改正交渉にあたりましたが、反対派に爆弾をなげつけられて右足を失います。
 1898年(明治31)に板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織し、総理大臣となったものの、党内抗争と薩長の妨害でわずか4ヵ月で総辞職するに至りました。
 1914年(大正3)に第2次内閣を組織して、再び総理大臣となり、第一次大戦に参戦、翌年には「対華二十一ヵ条要求」を提出、軍備拡張を行ったします。しかし、1916年(大正5)に侯爵に叙せられた後に辞職し、1922年(大正11)1月10日に、東京において83歳で亡くなりました。
 著作には、『大隈伯昔日譚』、『開国五十年史』(編著)、『開国大勢史』、『東西文明の調和』等があります。