今日は、明治時代後期の1891年(明治24)に、第一高等中学校講師内村鑑三の教育勅語への拝礼についての「不敬事件」が起こった日です。
この事件は、1891年(明治24)1月9日、第一高等中学校講堂での教育勅語捧読式で、教員と生徒が教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められたのに対して、内村鑑三が最敬礼をせず(礼が浅かった)に降壇したものでした。このことが同僚や生徒等によって非難されて問題化し、いわゆる「不敬事件」となり、2月に依願解嘱に至ったものです。
1890年(明治23)10月30日に発布された「教育勅語」について文部省は直ちにその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布し、丁重に取り扱うことが求められました。その中で、最初に発生した「不敬事件」として問題化、キリスト教信仰が近代天皇制国家理念と相容れない反国家性を持つものと非難され、明治政府による教育・思想統制の一つの事件ともされました。
内村鑑三は、明治時代、大正時代に活躍した無教会主義のキリスト教指導者・思想家です。1861年(万延2)に、内村宜之の長男として江戸藩邸に生まれました。
東京英語学校を経て、1877年(明治10)札幌農学校に第2期生として入学し、W.S.クラークの感化を受けてキリスト教に入信することになります。
卒業後は北海道開拓使御用掛となり、水産研究に従事しましたが、結婚に破れて1885年(明治17)渡米し、アマースト大学、ハートフォード神学校で学びました。
1888年(明治21)に帰国後、北越学館、東洋英和学校、水産伝習所で教え、1890年(明治23)第一高等中学校嘱託教員となりましたが、翌年教育勅語拝礼を拒んだ不敬事件で教壇を追われることになります。
その後、「万朝報」の記者となり、足尾銅山鉱毒事件反対運動にかかわり、日露戦争に際しては人道主義的立場から非戦論を唱えることになりました。
記者を辞めてからは、1900年(明治33)に「聖書之研究」を創刊し、聖書研究会をひらいて無教会主義をとなえることになります。
それからも、伝道活動・学問的研究・著述活動を精力的に行いましたが、1930年(昭和5)3月28日に、70歳で亡くなりました。
〇内村鑑三の主要な著作
・『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫
・『代表的日本人』岩波文庫(1908年)
・『基督信徒のなぐさめ』 岩波文庫(1976年)
・『求安録』 警醒社・福音社(1893年)
・『地人論』 警醒社(1894年)
・『後世への最大遺物』 便利堂(1897年)
・『デンマルク国の話』(1911年)
・『内村鑑三所感集』 鈴木俊郎編 岩波文庫
・『内村鑑三全集』全40巻 岩波書店(1984年完結)
☆内村鑑三の非戦論 1903年(明治36)6月30日付「万朝報」記事(全文)
余ハ日露非開戦論である許りでない。戦争絶対反対論者である。戦争ハ人を殺すことである。爾うして人を殺すことハ大罪悪である。爾うして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やう筈ハない。
世にハ戦争の利益を説く者がある、然り、余も一時は斯かる愚を唱へた者である。然しながら今に至て其愚の極なりしを表白する、戦争の利益は其害毒を贖ふに足りない、戦争の利益は強盗の利益である。是れは盗みし者の一時の利益であつて、(若し之れをしも利益と称するを得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である、盗みし者の道徳ハ之が為に堕落し、其結果として彼は終に彼が剣を抜て盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償はざるを得ざるに至る、若し世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。
近くは其実例を二十七八年の日清戦争に於て見ることが出来る、二億の富と一万の生命を消費して日本国が此戦争より得しものハ何である乎、僅少の名誉と伊藤博文伯が侯となりて彼の妻妾の数を増したることの外に日本国は此戦争より何の利益を得たか、其目的たりし朝鮮の独立は之がために強められずして却て弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、其道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆の地位にまで持ちきったでハない乎。此大害毒大損耗を目前に視ながら尚ほも開戦論を主張するが如きは正気の沙汰とは迚も思ハれない。
もちろんサーベルが政権を握る今日の日本において、余の戦争廃止論が直に行はれやうとハ、余と雖も望まない。然しながら戦争廃止論ハ今や文明国の識者の輿論となりつゝある。爾うして戦争廃止論の声の揚らない国は未開国である、然り、野蛮国である、余は不肖なりと雖も今の時に方て此声を揚げて一人なりとも多くの賛成者を此大慈善主義のために得たく欲ふ、世の正義と人道と国家とを愛する者よ、来て大胆に此主義に賛成せよ。
『万朝報』1903年6月30日より
<現代語訳>
私は日露戦争の非開戦論者であるばかりでなく、戦争の絶対廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そのようにして、人を殺すことは大罪悪である。そのようにして、大罪悪を犯して、個人も国家も得をするはずもない。
世の中には、戦争での利益を説明する人がいる。確かに、私も一時(日清戦争の時)このような愚かなことを唱えた人間である。しかしながら、今になってそれが愚の骨頂だったことを表明する。戦争の利益は、その害毒を償うには足りないし、それは強盗の利益に匹敵するものなのだ。これは、盗人の一時利益であって、(もしこれをも利益というのであるならばなのだが)盗人と盗まれた人との永久の不利益となるのだ。盗人の道徳はこれによって地に落ち、その結果として盗人が武器をもって、盗んだものの数倍以上のものでその罪悪を償わざるを得なくなるのだ。もし世の中で最も愚かな行為というものがあれば、それは武器をもって、国の運命を進めようと計ることである。
近くでは、その実例を明治27~28年の日清戦争において見ることができる。二億円の金と一万の人命を消費して、日本国がこの戦争より得たものは何であるか。ささいな名誉と伊藤博文首相が伯爵から侯爵に昇って、めかけの数を増やしたことぐらいで、日本国はこの戦争で何の利益を得たというのだろうか、その目的だったはずの朝鮮の独立も、これによって強められたのではなく、逆に弱められ、中国の他国による分割支配のきっかけがつくられ、日本国民の負担はとても増加し、その道徳は非常に地に落ち、東洋全体が危険におちいったではないか。この大きな害毒、大きな損耗を目の前に見ていても、なおも日露戦争の開戦論を主張するというようなことは、正気の沙汰とはとても思われない。
もちろん、軍人が政権を握っている(陸軍大将桂太郎が首相)という、現在の日本において、私の戦争廃止論がすぐに実行に移されるとは、私でさえも希望を持っていない。しかしながら、戦争廃止論は、文明国の知識ある人々の世論となりつつあるのだ。そのようにして、戦争廃止論の声が上がらない国は、未開国であり、つまり、野蛮国ということだ。私は、未熟者ではあるが、今の時節にあたり、この声をあげて、一人でも多くの賛成者をこの大慈善主義のために得たいと願っている。世の中の正義と人道と国家を愛する者は、集まってきて大胆にこの主義に賛成してほしい。
【注釈】
[1]斯かる愚を唱へた者:かかるぐをとなえたもの=内村は日清戦争にあたって「義の為の戦争」と肯定していた。
[2]贖ふ:あがなふ=償う。
[3]日清戦争:にっしんせんそう=1894年(明治27)8月から翌年にかけて、日本と清国が戦った戦争。
[4]二億の富:におくのとみ=日清戦争の戦費が約2億円かかったことを指している。
[5]一万の生命:いちまんのせいめい=日清戦争で約一万三千人の戦死者・戦病死者を出したことを指している。
[6]伊藤博文:いとうひろぶみ=日清戦争の時の首相だった。⇒詳細
[7]伯が侯となり:はくがこうとなり=日清戦争後の1895年(明治28)8月に、伊藤博文が伯爵から侯爵に昇ったこと。
[8]妻妾の数を増やしたる:さいしょうのかずをふやしたる=伊藤博文には何人かのめかけがいたことを揶揄している。
[9]危殆:きたい=あやういこと。非常にあぶないこと。危険。
[10]サーベルが政権を握る:さーべるがせいけんをにぎる=軍人が政権を握っている(陸軍大将桂太郎が首相)ことを指す。
[11]不肖:ふしょう=取るに足りないこと。未熟で劣ること。
この事件は、1891年(明治24)1月9日、第一高等中学校講堂での教育勅語捧読式で、教員と生徒が教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められたのに対して、内村鑑三が最敬礼をせず(礼が浅かった)に降壇したものでした。このことが同僚や生徒等によって非難されて問題化し、いわゆる「不敬事件」となり、2月に依願解嘱に至ったものです。
1890年(明治23)10月30日に発布された「教育勅語」について文部省は直ちにその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布し、丁重に取り扱うことが求められました。その中で、最初に発生した「不敬事件」として問題化、キリスト教信仰が近代天皇制国家理念と相容れない反国家性を持つものと非難され、明治政府による教育・思想統制の一つの事件ともされました。
内村鑑三は、明治時代、大正時代に活躍した無教会主義のキリスト教指導者・思想家です。1861年(万延2)に、内村宜之の長男として江戸藩邸に生まれました。
東京英語学校を経て、1877年(明治10)札幌農学校に第2期生として入学し、W.S.クラークの感化を受けてキリスト教に入信することになります。
卒業後は北海道開拓使御用掛となり、水産研究に従事しましたが、結婚に破れて1885年(明治17)渡米し、アマースト大学、ハートフォード神学校で学びました。
1888年(明治21)に帰国後、北越学館、東洋英和学校、水産伝習所で教え、1890年(明治23)第一高等中学校嘱託教員となりましたが、翌年教育勅語拝礼を拒んだ不敬事件で教壇を追われることになります。
その後、「万朝報」の記者となり、足尾銅山鉱毒事件反対運動にかかわり、日露戦争に際しては人道主義的立場から非戦論を唱えることになりました。
記者を辞めてからは、1900年(明治33)に「聖書之研究」を創刊し、聖書研究会をひらいて無教会主義をとなえることになります。
それからも、伝道活動・学問的研究・著述活動を精力的に行いましたが、1930年(昭和5)3月28日に、70歳で亡くなりました。
〇内村鑑三の主要な著作
・『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫
・『代表的日本人』岩波文庫(1908年)
・『基督信徒のなぐさめ』 岩波文庫(1976年)
・『求安録』 警醒社・福音社(1893年)
・『地人論』 警醒社(1894年)
・『後世への最大遺物』 便利堂(1897年)
・『デンマルク国の話』(1911年)
・『内村鑑三所感集』 鈴木俊郎編 岩波文庫
・『内村鑑三全集』全40巻 岩波書店(1984年完結)
☆内村鑑三の非戦論 1903年(明治36)6月30日付「万朝報」記事(全文)
余ハ日露非開戦論である許りでない。戦争絶対反対論者である。戦争ハ人を殺すことである。爾うして人を殺すことハ大罪悪である。爾うして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やう筈ハない。
世にハ戦争の利益を説く者がある、然り、余も一時は斯かる愚を唱へた者である。然しながら今に至て其愚の極なりしを表白する、戦争の利益は其害毒を贖ふに足りない、戦争の利益は強盗の利益である。是れは盗みし者の一時の利益であつて、(若し之れをしも利益と称するを得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である、盗みし者の道徳ハ之が為に堕落し、其結果として彼は終に彼が剣を抜て盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償はざるを得ざるに至る、若し世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。
近くは其実例を二十七八年の日清戦争に於て見ることが出来る、二億の富と一万の生命を消費して日本国が此戦争より得しものハ何である乎、僅少の名誉と伊藤博文伯が侯となりて彼の妻妾の数を増したることの外に日本国は此戦争より何の利益を得たか、其目的たりし朝鮮の独立は之がために強められずして却て弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、其道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆の地位にまで持ちきったでハない乎。此大害毒大損耗を目前に視ながら尚ほも開戦論を主張するが如きは正気の沙汰とは迚も思ハれない。
もちろんサーベルが政権を握る今日の日本において、余の戦争廃止論が直に行はれやうとハ、余と雖も望まない。然しながら戦争廃止論ハ今や文明国の識者の輿論となりつゝある。爾うして戦争廃止論の声の揚らない国は未開国である、然り、野蛮国である、余は不肖なりと雖も今の時に方て此声を揚げて一人なりとも多くの賛成者を此大慈善主義のために得たく欲ふ、世の正義と人道と国家とを愛する者よ、来て大胆に此主義に賛成せよ。
『万朝報』1903年6月30日より
<現代語訳>
私は日露戦争の非開戦論者であるばかりでなく、戦争の絶対廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そのようにして、人を殺すことは大罪悪である。そのようにして、大罪悪を犯して、個人も国家も得をするはずもない。
世の中には、戦争での利益を説明する人がいる。確かに、私も一時(日清戦争の時)このような愚かなことを唱えた人間である。しかしながら、今になってそれが愚の骨頂だったことを表明する。戦争の利益は、その害毒を償うには足りないし、それは強盗の利益に匹敵するものなのだ。これは、盗人の一時利益であって、(もしこれをも利益というのであるならばなのだが)盗人と盗まれた人との永久の不利益となるのだ。盗人の道徳はこれによって地に落ち、その結果として盗人が武器をもって、盗んだものの数倍以上のものでその罪悪を償わざるを得なくなるのだ。もし世の中で最も愚かな行為というものがあれば、それは武器をもって、国の運命を進めようと計ることである。
近くでは、その実例を明治27~28年の日清戦争において見ることができる。二億円の金と一万の人命を消費して、日本国がこの戦争より得たものは何であるか。ささいな名誉と伊藤博文首相が伯爵から侯爵に昇って、めかけの数を増やしたことぐらいで、日本国はこの戦争で何の利益を得たというのだろうか、その目的だったはずの朝鮮の独立も、これによって強められたのではなく、逆に弱められ、中国の他国による分割支配のきっかけがつくられ、日本国民の負担はとても増加し、その道徳は非常に地に落ち、東洋全体が危険におちいったではないか。この大きな害毒、大きな損耗を目の前に見ていても、なおも日露戦争の開戦論を主張するというようなことは、正気の沙汰とはとても思われない。
もちろん、軍人が政権を握っている(陸軍大将桂太郎が首相)という、現在の日本において、私の戦争廃止論がすぐに実行に移されるとは、私でさえも希望を持っていない。しかしながら、戦争廃止論は、文明国の知識ある人々の世論となりつつあるのだ。そのようにして、戦争廃止論の声が上がらない国は、未開国であり、つまり、野蛮国ということだ。私は、未熟者ではあるが、今の時節にあたり、この声をあげて、一人でも多くの賛成者をこの大慈善主義のために得たいと願っている。世の中の正義と人道と国家を愛する者は、集まってきて大胆にこの主義に賛成してほしい。
【注釈】
[1]斯かる愚を唱へた者:かかるぐをとなえたもの=内村は日清戦争にあたって「義の為の戦争」と肯定していた。
[2]贖ふ:あがなふ=償う。
[3]日清戦争:にっしんせんそう=1894年(明治27)8月から翌年にかけて、日本と清国が戦った戦争。
[4]二億の富:におくのとみ=日清戦争の戦費が約2億円かかったことを指している。
[5]一万の生命:いちまんのせいめい=日清戦争で約一万三千人の戦死者・戦病死者を出したことを指している。
[6]伊藤博文:いとうひろぶみ=日清戦争の時の首相だった。⇒詳細
[7]伯が侯となり:はくがこうとなり=日清戦争後の1895年(明治28)8月に、伊藤博文が伯爵から侯爵に昇ったこと。
[8]妻妾の数を増やしたる:さいしょうのかずをふやしたる=伊藤博文には何人かのめかけがいたことを揶揄している。
[9]危殆:きたい=あやういこと。非常にあぶないこと。危険。
[10]サーベルが政権を握る:さーべるがせいけんをにぎる=軍人が政権を握っている(陸軍大将桂太郎が首相)ことを指す。
[11]不肖:ふしょう=取るに足りないこと。未熟で劣ること。