今日は、1831年(天保2)に、禅僧・歌人・書家良寛の亡くなった日ですが、新暦では2月18日となります。
江戸時代中期の1758年(宝暦8)10月2日(1757年説あり)に、越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主橘屋山本左門泰雄(伊織、号以南)の長男として生まれとされますが、本名は山本栄蔵といい、号は大愚(たいぐ)でした。
16歳のときに突然出家して、隣村の曹洞宗光照寺で修行をし、良寛と名乗るようになります。1775年(安永4)備中国玉島(現在の岡山県倉敷市)円通寺の国仙和尚が光照寺に来た時に、感銘を受け、随行して円通寺で、20年間師事することになります。
32歳の時に、国仙和尚が亡くなり、中国、四国、九州を行脚し始めました。京都から高野山にも上りましたが、40歳頃に帰郷し故郷周辺を転々とし、46歳の時に、越後国蒲原郡国上村(現在の新潟県燕市)国上山国上寺の五合庵に住むようになりました。
托鉢の合間に詩歌や書をたのしみましたが、58歳の時に国上山麓の乙子神社境内に庵をつくって移ります。その後、老衰のため、三島郡島崎村(現在の長岡市島崎)の豪商能登屋木村元右衛門邸内の庵に移って世話を受けましたが、1831年(天保2)1月6日に、弟子の貞心尼に看取られ、72歳で亡くなりました。
万葉風の和歌及び書風は天衣無縫で高い評価を得るようになりますが、作品として、和歌『布留散東 (ふるさと) 』 (自筆歌稿)、『蓮の露』 (没後貞心尼編)、漢詩『草堂集』 (2巻)、『良寛道人遺稿』などが残されています。
現在、良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵(復元)、乙子神社の庵跡には良寛の詩と歌を刻んだ碑が建てられ、島崎の木村家邸内には遷化跡の標示と「良寛遺宝堂」があり、出雲崎町には「良寛記念館」が建てられました。
<代表的な歌>
「風きよし 月はさやけし いざともに 踊り明かさむ 老いのなごりに」
「歌もよまむ 手毬もつかむ 野にもいでむ 心ひとつを 定めかねつも」
江戸時代中期の1758年(宝暦8)10月2日(1757年説あり)に、越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主橘屋山本左門泰雄(伊織、号以南)の長男として生まれとされますが、本名は山本栄蔵といい、号は大愚(たいぐ)でした。
16歳のときに突然出家して、隣村の曹洞宗光照寺で修行をし、良寛と名乗るようになります。1775年(安永4)備中国玉島(現在の岡山県倉敷市)円通寺の国仙和尚が光照寺に来た時に、感銘を受け、随行して円通寺で、20年間師事することになります。
32歳の時に、国仙和尚が亡くなり、中国、四国、九州を行脚し始めました。京都から高野山にも上りましたが、40歳頃に帰郷し故郷周辺を転々とし、46歳の時に、越後国蒲原郡国上村(現在の新潟県燕市)国上山国上寺の五合庵に住むようになりました。
托鉢の合間に詩歌や書をたのしみましたが、58歳の時に国上山麓の乙子神社境内に庵をつくって移ります。その後、老衰のため、三島郡島崎村(現在の長岡市島崎)の豪商能登屋木村元右衛門邸内の庵に移って世話を受けましたが、1831年(天保2)1月6日に、弟子の貞心尼に看取られ、72歳で亡くなりました。
万葉風の和歌及び書風は天衣無縫で高い評価を得るようになりますが、作品として、和歌『布留散東 (ふるさと) 』 (自筆歌稿)、『蓮の露』 (没後貞心尼編)、漢詩『草堂集』 (2巻)、『良寛道人遺稿』などが残されています。
現在、良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵(復元)、乙子神社の庵跡には良寛の詩と歌を刻んだ碑が建てられ、島崎の木村家邸内には遷化跡の標示と「良寛遺宝堂」があり、出雲崎町には「良寛記念館」が建てられました。
<代表的な歌>
「風きよし 月はさやけし いざともに 踊り明かさむ 老いのなごりに」
「歌もよまむ 手毬もつかむ 野にもいでむ 心ひとつを 定めかねつも」