ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年12月

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 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、洋画家浅井忠の亡くなった日です。
 浅井忠は、江戸時代後期の1856年(安政3年6月21日)に、江戸の佐倉藩中屋敷で、佐倉藩士・浅井常明の長男として生まれ、幼名を忠之丞、のち常保といいました。
 佐倉(現在の千葉県佐倉市)で藩校・成徳書院に通いながら、藩の南画家黒沼槐山に日本画を学びます。1873年(明治6)に上京し、箕作秋坪に英語を学ぶものの、1876年(明治9)には国沢新九郎の彰技堂に入り西洋画研究に転じました。
 同年創設の工部美術学校に入学し、フォンタネージに師事しますが、1878年(明治11)には退学します。小山正太郎らと十一会を結成し、画業を研鑽し、1889年(明治22)には明治美術会を結成しました。第1回展に「春畝」を、翌年の第2回展に「収穫」を発表して注目されます。
 1894年(明治27)には、日清戦争に従軍し、帰国後に京都で開催された第4回内国勧業博覧会に「旅順戦後の捜索」を出品して妙技二等賞を受賞しました。
 1898年(明治31)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となり、1900年(明治33)からはフランスへ西洋画のために留学します。
 1902年(明治35)に帰国してからは京都に移り、新設の京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となりました。その傍ら、翌年に聖護院洋画研究所(後の関西美術院)を開いて後進の育成にも努力し、安井曽太郎、梅原龍三郎らを育てます。
 東宮御所造営に際し絵画制作を委嘱され、1906年(明治39)に「武士の山狩」を完成するなどしましたが、1907年(明治40)12月16日、入院中の東京大学病院において、51歳で亡くなりました。

〇浅井忠の主要な作品
・「藁屋根」(1887年・千葉県立美術館蔵)
・「八王子付近の街」(1887年・愛知県美術館蔵)
・「春畝」(1888年・東京国立博物館蔵・重要文化財指定)
・「収穫」(1890年・東京芸術大学蔵・重要文化財指定)
・「農夫とカラス」 (1891年・石川県立美術館蔵)
・「旅順戦後の捜索」(1895年・東京国立博物館蔵)
・「農家(日傘のある風景)」(1895年・個人蔵)
・「漁婦」(1897年・千葉県立美術館蔵)
・「グレーの秋」(1901年・東京国立博物館蔵)
・「フォンテンブローの森」(1901年・千葉県立美術館蔵)
・「グレーの洗濯場」 (1902年・東京国立博物館蔵)
・「冬木立」 (1902年・東京国立博物館蔵)
・「八瀬の秋」 (1902年)
・「にわとり」(1902年・佐倉市立美術館蔵)
・「雲」(1903-07年・静岡県立美術館蔵)
・「武士の山狩」(1906年・京都工芸繊維大学蔵)
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、福岡県田川郡方城町(現在の福智町)にあった方城炭鉱で、日本最大の被害を出した炭鉱爆発事故の起きた日です。
 この事故は、12月15日午前9時40分頃に、地下約270mの深さの採掘現場で発生し、激しい爆発音とともに地面は揺れ、昇降機が鉄塔の上まで吹き飛ばされ、地上まで黒煙のきのこ雲が吹き上がるほどでした。当時は、炭鉱事故を「非常」と呼び、この事故は、「方城大非常」と呼ばれるようになります。
 犠牲者は、死者671人(会社側発表)、内男性540人、女性131人ですが、11歳から18歳の若年者が71人(男44人・女27人)含まれていました。しかし、入坑者の人数は正確には把握されておらず、実際には、千人以上が犠牲になったという説もあります。

〇方城炭鉱(ほうじょうたんこう)とは?
 福岡県田川郡方城町(現在の福智町)に明治時代後期から昭和時代中期まであった炭鉱です。筑豊炭田の中の炭鉱として、三菱合資会社が1896年(明治29)に炭層調査を開始、1902年(明治35)に縦坑建設に着手、1908年(明治41)に開鉱しました。
 1908年(明治41)に12万トン、1913年(大正2)には26万トンの出炭と急増し、三菱の主力炭鉱となります。しかし、1914年(大正3)12月15日に、炭鉱爆発事故を起こし、判明しているだけで、671人の死者(日本の炭鉱事故史上最大の被害)を出しました。
 その後、復興して出炭が続けられ、太平洋戦争中の1940年(昭和15)から終戦の1945年(昭和20)の間には、朝鮮半島の人々を日本国内に強制連行し、ここでも、3千人以上働かさせていたと言われ、また囚人も使役されています。
 1960年代頃から、エネルギーの石炭から石油への転換がはかられてくると経営的にも行き詰っていき、1962年(昭和37)に一端閉山されました。そして、人員整理して別会社の方城炭坑株式会社として存続がはかられたものの、1964年(昭和39)には、完全に閉山となったのです。

☆日本の主な炭鉱事故

・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1916年 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者376人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]
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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、洋画家安井曾太郎の亡くなった日です。
 安井曾太郎は、明治時代前期の1888年(明治21)5月17日に、京都府京都市で木綿問屋を営む父安井元七と母よねの五男として生まれました。
 1898年(明治31)に京都市立商業学校に入学するものの、2年後に中退して、翌年に聖護院洋画研究所(のち関西美術院に発展)に入所します。浅井忠、鹿子木孟郎らに師事して絵を学び始めましたが、同門に、梅原龍三郎もいました。
 1907年(明治40)に、フランスに留学し、アカデミー・ジュリアンで、J.P.ローランスに師事しながらセザンヌらの後期印象派の美術を学び、1914年(大正3)に帰国します。
 翌年に、二科会展に「足を洗う女」など滞欧作を発表して注目を集め、二科会々員に推挙されました。その後、毎年二科会に作品を発表する一方、1930年代に石原求龍堂から木版画を発表するようになり、1931年(昭和6年)に『安井曾太郎版画集』を出します。
 しかし、1935年(昭和10)に帝国美術院会員に任命されると共に二科会々員を辞し、翌年同志と一水会を創立してその会員となります。1944年(昭和19)には、東京美術学校(現在の東京幻術大学)教授となり、同年7月1日帝室技芸員となりました。
 1948年(昭和23)以来、療養を兼ねて神奈川県湯河原に移り、翌年日本美術家連盟の創立とともにその会長に推され、終生同連盟の発展に尽力しました。
 独自の写実様式を確立し、梅原竜三郎とともに一時代を画し、1952年(昭和27)には、文化勲章を受章したものの、1955年(昭和30)12月14日、肺炎のため67歳で亡くなっています。

〇安井曾太郎の主要な作品

<油彩画>
・「足を洗う女」(1913年)
・「孔雀と女」 (1914年・個人蔵)
・「黒き髪の女」(1924年・BBプラザ美術館蔵)
・「婦人像」(1930年・京都国立近代美術館蔵)
・「外房風景」(1931年・大原美術館蔵)
・「薔薇」(1932年・ブリヂストン美術館蔵)
・「金蓉」(1934年・東京国立近代美術館蔵)
・「T先生の像」(玉蟲先生像)(1934年・東北大学史料館蔵)
・「深井英五氏像」(1937年・東京国立博物館蔵)
・「承徳喇嘛廟(らまびょう)」(1938年・愛知県美術館蔵)
・「孫」(1950年・大原美術館蔵)
・「安倍能成氏像」(1955年・東京国立近代美術館蔵)

<木版画>
・「椅子に凭れる女」(1932年・郡山市立美術館蔵) 石原求龍堂版 平塚運一彫、摺
・「果物」(1932年・郡山市立美術館蔵) 石原求龍堂版 平塚運一彫、摺
・「外房風景」(1932年・郡山市立美術館蔵) 石原求龍堂版 
・「魚とさざえ」(1934年・郡山市立美術館蔵) 石原求龍堂版 
・「画家とモデル」(1934年・郡山市立美術館蔵) 石原求龍堂版 
・「レコードを聴く人」(1935年・郡山市立美術館蔵) 石原求龍堂版
・「十和田湖の秋」(1935年・郡山市立美術館蔵) 石原求龍堂版
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、市川房枝、久布白落実らが東京の丸の内保険協会に集まって、「婦人参政権獲得期成同盟会」を発足させた日です。
 この会は、関東大震災の救援活動を通じて集まった婦人団体が「東京連合婦人会」を組織し、その政治部が母体となって、市川房枝・久布白落実らを中心に、1924年(大正13)12月13日結成し、宣言書と規約が決められました。
 当初は目的を婦人参政権獲得にしぼり、対議会活動を主に運動をすすめ、政党には中立の立場をとります。婦人結社権、婦人公民権(地方政治への参政権)、婦人参政権の3案を第50帝国議会に提出し、以後毎議会にそれらを提出し続けました。
 進歩的知識婦人の多くをまきこみ、1940年(昭和15)9月に解散するまで、婦人参政権運動の中心的な団体として活動します。しかし、実際に婦人参政権が実現するのは、この時から21年後の1945年(昭和20)12月のことでした。

〇「婦人参政権獲得期成同盟会」の宣言書

一,我等は二千六百年来の因習を破り,男女ともに天賦の義務権利に即して新日本建設の責務を負ふべきことを信ず。
一,明治初年より半世紀にわたり民教育においてすでに男女の別なく,また女子高等教育の門戸も開かれつつある今日,普通選挙の実施にあたり女子を除外するは不当のことといはざるを得ず,我等はこれを要求す。
一,我が国の職業婦人はすでに四百万に達せり,その利益擁護のために参政権を要求するは当然のことと信ず。
一,我国大多数の家庭婦人はその生活完成のため,法律上国家の一員たるべくこれを要求す。
一,市町村における公民たり,また国家の公民たる資格を求めて我等は参政権を必要とす。
一,以上は宗教の異同,職業の差異,あらゆる異同を除きただ女性の名において一致し得る問題なるがゆえに,ここに大同団結を作り婦人参政権獲得運動をなす必要とその可能性とを信ず。

 依って左の決議をなす。

 決議一
我等は市町村に於ける公民権を獲得せんがために、来る第五十議会に提出されんとする市町村制改正法律案中に婦人を男子と同様に含むことを要求す。

 決議二
我等に国家の半身たる存在と義務とを全うせんがために、来る第五十議会に提出せられんとする選挙法改正法律案中に婦人を男子と同様に含むことを要求す。

 決議三
我等は政事的結社の自由を獲得せんがために、治安警察法第五条第一項中より「五 女子」の三字を削除せんことを要求す。
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 今日は、明治時代後期の1898年(明治31)に、小説家黒島伝治が生まれた日です。
 大正時代から昭和時代前期に活躍したプロレタリア文学の小説家で、香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)で、貧農の長男に生まれました。
 1914年(大正3)に内海実業補習学校を卒業後、島の船山醬油会社の醸造工となりますが、1年ほどで退職します。1917年(大正6)には、文学を志して上京し、建物会社に勤めながら小説の勉強をし、1919年(大正8)早稲田大学予科の選科生となりました。
 同年に招集されて、衛生兵として入隊し、1921年(大正10)にシベリア出征したものの、胸を患って帰国します。
 その後、島で療養しながら、1923年(大正12)処女作「窃む女」を書きました。再び上京して、壺井繁治・栄夫妻の家に寄宿し、1925年(大正14)発表の「電報」「結核病室」で世に知られるようになりました。
 翌年、『文芸戦線』に「二銭銅貨」「豚群」を発表し、同人となって、農民文学の作家として注目されます。一方、1927年(昭和2)年に労農芸術家連盟(労芸)創立に参加し、『橇(そり)』(1927年)、『渦巻ける烏の群』(1928年)ではシベリア従軍体験に根ざした優れた反戦文学を結実させ、プロレタリア文学の作家として活動しました。
 しかし、1930年(昭和5)に脱退し、全日本無産者芸術連盟(ナップ)所属の日本プロレタリア作家同盟に参加するものの、1933年(昭和8)には、結核療養のため小豆島に帰ります。その後、1943年(昭和18)年10月17日、郷里小豆島において44歳で病死しました。

〇黒島伝治の主要な作品
・『窃む女』 (1923年)
・『電報』 (1925年)
・『結核病室』 (1925年)
・『二銭銅貨』 (1926年)
・『豚群』 (1926年)
・『橇 (そり) 』 (1927年)
・『雪のシベリア』 (1927年)
・『渦巻ける烏の群』 (1928年)
・『パルチザン・ウオルコフ』 (1928年)
・『氷河』 (1929年)
・『砂金』(1930年)
・『浮動する地価』(1930年)
・『武装せる市街』(1930年)
・『腹の胼胝』(1930年)
・『国境』 (1931年)
・『前哨』 (1932年)
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