ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年12月

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 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%(関東地区・ビデオリサーチ社調査)を記録した日です。
 これは、1962年(昭和37)に、ビデオリサーチ社による視聴率調査が始まって以来の最高視聴率で、その時のニールセン社の調査では、89.8%を記録していました。
 ちなみに、NHK紅白歌合戦の視聴率は、その後も高く、関東地区のビデオリサーチ社調査では、過去の視聴率ベスト10を独占しています。
 紅白歌合戦以外の最高視聴率は、1964年(昭和39)10月23日の東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか)の66.8%で、これもNHKの放映でした。
 民放の最高視聴率は、2002年(平成14)6月9日のワールドカップサッカー(日本×ロシア)で、66.1%です。 

〇視聴率とは?
 あるテレビの番組が、一定地域内のどれくらいの人または世帯で見られたかを示す割合のことで、世帯視聴率と個人視聴率がありますが、一般には前者を指してきました。尚、ラジオの場合は聴取率と言っています。
 調査方法としては、電話によるインタビュー、個人面接、日記による記録、特定の機械による方法などがありました。日本において歴史的には、1954年(昭和29)に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初とされています。
 翌年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を始め(1963年1月まで)、1958年(昭和33)には社団法人中央調査社が日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、翌年には毎月に拡大しました。
 そして、1961年(昭和36)に外資系のニールセン社、翌年にはビデオ・リサーチ社が調査対象世帯に測定機を置く機械式調査を開始し、視聴率調査の主流となっていきます。
 ところが、2000年(平成12)にニールセン社が撤退し、現在では、ビデオリサーチ社が関西、名古屋、札幌、その他大都市地域でそれぞれ実施している機械式調査が中心となりました。その中で、NHKの放送世論調査所では年5回、日記式の全国個人視聴率調査をしてきています。
 2015年(平成27)から、関東地区においては、ビデオリサーチ社によるタイムシフト視聴率(録画して視聴するものも含めた視聴率)が提供されるようになりました。
 ちなみに、視聴率1%はほぼ100万人が視聴していることに相当するといわれ、商業放送では、広告料金の決定や広告効果測定に重要な要素となっています。しかし、行き過ぎた視聴率競争の結果、番組の質が低下しているとの批判も出されるようになりました。

☆過去のNHK紅白歌合戦視聴率ベスト10(関東地区・ビデオリサーチ社調査)

・第1位 81.4% 第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日 
・第2位 80.6% 第23回NHK紅白歌合戦 1972年12月31日 
・第3位 80.4% 第13回NHK紅白歌合戦 1962年12月31日 
・第4位 78.1% 第35回NHK紅白歌合戦 1984年12月31日
・第4位 78.1% 第22回NHK紅白歌合戦 1971年12月31日 
・第4位 78.1% 第16回NHK紅白歌合戦 1965年12月31日 
・第7位 77.0% 第30回NHK紅白歌合戦 1979年12月31日 
・第7位 77.0% 第21回NHK紅白歌合戦 1970年12月31日 
・第7位 77.0% 第28回NHK紅白歌合戦 1977年12月31日
・第10位 76.9% 第19回NHK紅白歌合戦 1968年12月31日

☆過去のNHK紅白歌合戦以外の番組の視聴率ベスト10(関東地区・ビデオリサーチ社調査)

・第1位 66.8% 東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか) 1964年10月23日[NHK]
・第2位 66.1% W杯サッカー韓日大会(日本×ロシア) 2002年6月9日[フジテレビ] 
・第3位 64.0% プロレス (WWA 世界選手権・デストロイヤー×力道山) 1963年5月24日[日本テレビ]
・第4位 63.7% 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイテイング原田×エデル・ジョフレ) 1966年5月31日[フジテレビ]
・第5位 62.9% 連続テレビ小説「おしん」 1983年11月12日[NHK]
・第6位 60.9% W杯サッカーフランス'98(日本×クロアチア) 1998年6月20日[NHK]
・第7位 60.4% 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイテイング原田×アラン・ラドキン) 1965年11月30日[フジテレビ]
・第8位 59.0% 帰らなかった吉展ちゃん 1965年7月5日[NHK]
・第9位 58.7% 第20回オリンピックミュンヘン大会 1972年9月8日[NHK]
・第10位 57.3% W杯サッカ-南アフリカ大会(日本×パラグアイ) 2010年6月29日[TBS]
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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、東京の上野駅~浅草駅に日本初の地下鉄(現在の東京地下鉄銀座線)が開通した日で、「地下鉄記念日」とも呼ばれています。
 日本最初の地下鉄は、1920年(大正9)に「東京地下鉄道株式会社」が設立され、1923年(大正12)に東京市の新橋~上野間の工事施行認可を受けるものの、その年に起きた関東大震災の影響で施行区間を上野~浅草に変更し、1925年(大正14)9月27日に着工されました。そして、オープンカット工法による2年余りの工事を経て、1927年(昭和2)12月30日に、上野駅~浅草駅間(2.2km)が開通します。
 この路線は、1939年(昭和14)までに延伸されて、浅草駅~渋谷駅間が全通しました。そして、1941年(昭和16)に設立された帝都高速度交通営団に引き継がれ、営団地下鉄銀座線となります。一方、大阪市では、1933年(昭和8)に、梅田(仮駅)~心斎橋駅間(3.1km)が開通しました。
 太平洋戦争後は、東京でも大阪でも新しい路線の建設や延伸が行われ、他の都市でも、1957年(昭和32)の名古屋市の名古屋駅~栄町駅間(2.4km)の開通を皮きりに広がって行きます。
 その後、札幌市(1971年)、横浜市(1972年)、神戸市(1977年)、京都市(1981年)、福岡市(1981年)、仙台市(1987年)などで開業し、2001年(平成13)時点の営業キロ数は672.9kmに達しました。
 それからも各地で新路線や延伸が進み、現在は、15事業者49路線で、営業キロ数は796.4kmとなっています。

☆日本で営業中の「地下鉄」(日本地下鉄協会の分類)一覧

・札幌市営地下鉄(札幌市交通局)3路線48.0km 46駅 日本唯一のゴムタイヤ式地下鉄
・仙台市地下鉄(仙台市交通局)2路線28.7km 29駅
・埼玉高速鉄道線(埼玉高速鉄道)1路線14.6km 8駅 総延長の97%が地下区間
・都営地下鉄(東京都交通局)4路線109.0km 98駅
・東京メトロ(東京地下鉄) 9路線195.1km 141駅
・りんかい線(東京臨海高速鉄道)1路線12.2km 8駅
・東葉高速線(東葉高速鉄道)1路線16.2km 9駅
・横浜市営地下鉄(横浜市交通局)3路線53.5km 40駅
・みなとみらい線(横浜高速鉄道)1路線4.1km 6駅
・名古屋市営地下鉄(名古屋市交通局)6路線93.2km 87駅
・京都市営地下鉄(京都市交通局)2路線31.2km 31駅
・大阪市営地下鉄(大阪市交通局)8路線129.9km 100駅
・神戸市営地下鉄(神戸市交通局)4路線30.6km 25駅
・アストラムライン(広島高速交通)1路線0.3km 2駅 総延長の10%が地下区間
・福岡市地下鉄(福岡市交通局)3路線29.8km 35駅
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 今日は、1941年(昭和16)に、生物学者・民俗学者南方熊楠(みなかた くまぐす)が亡くなった日です。
 南方熊楠は、1867年(慶応3年4月15日)に、紀州和歌山城下(現在の和歌山県和歌山市)の金物商の次男として生まれました。
 1883年(明治16)和歌山中学(現在の県立桐蔭高校)を卒業し、上京して大学予備門(現在の東京大学教養課程の前身)に入り、石器や土器,動植鉱物の標本採集に熱中しましたが、1886年(明治19)に病気を理由に退学します。
 その後渡米し、一時ミシガン州立ランシング農学校に在籍しましたが、またもや中退し、曲馬団の事務員となって、中南米各地を放浪して動植物の観察・採集をしました。
 1892年(明治25)に英国に渡り、ロンドン学会の天文学懸賞論文に当選、学会で認められ、各国語に通じていたので大英博物館嘱託となって、「Nature」誌などに論文を寄稿します。
 1900年(明治33)に帰国し、和歌山県田辺町(現在の田辺市)に住み、粘菌類(変形菌類)などの採集・研究を進めました。その一方で、民俗学の研究にも取り組み、『太陽』『人類学雑誌』『郷土研究』などの雑誌に多くの論考を寄稿します。
 1907年(明治40)から「神社合祀令」に反発し、自然保護の観点から反対運動を起しました。1929年(昭和4)に昭和天皇南紀行幸の際、田辺湾神島に天皇を迎え、御進講や標本の進献などを行います。
 大酒豪で奇行も多く、いろいろと逸話も残しましたが、1941年(昭和16)12月29日に田辺の自宅において、74歳で亡くなりました。
 菌類の採集研究では約70の新菌種を発見、また、民俗学研究上の代表的な著作としては、『十二支考』『南方閑話』『南方随筆』などがあり、『南方熊楠全集』 (12巻) が出されています。
 尚、1965年(昭和40)に、和歌山県白浜町には「南方熊楠記念館」が出来、2006年(平成18)に、和歌山県田辺市には、旧居に隣接して「南方熊楠顕彰館」が開館しました。
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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、山陰本線余部鉄橋で列車転落事故が起きた日です。
 これは、12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送列車が余部鉄橋を通過中に、日本海からの最大風速33m/sの突風にあおられて、機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落した事故でした。
 これによって、橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊し、車掌1名と水産加工工場女性従業員5名が死亡し、 6名の負傷者が出たのです。
 列車指令員が、運転停止とすべき状況を知らされているにもかかわらず、列車を抑止しなかったことなどが原因でした。
 鉄橋からの転落事故で死傷者が出たのは、1899年(明治32)10月7日の日本鉄道(現在の東北本線)矢板駅 - 野崎駅間箒川橋梁転落事故で、20人が死亡、45人が負傷して以来87年ぶりのことと言われています。

〇余部鉄橋とは?
 兵庫県美方郡香美町余部にあった山陰本線の橋梁(鉄橋)でした。鎧(よろい)駅と余部駅の間に位置し、1909年(明治42)に起工、1911年(明治45)1月13日に完成し、同年3月1日に開通したもので、これによって山陰本線が全通します。
 当時のものは、11台のトレッスル式橋脚をもつ特殊な構造で、全長309m、高さ41.5m、「東洋一の規模」とうたわれ、1928年(昭和3)に高森線(現在の南阿蘇鉄道)第一白川橋梁完成までは、日本で一番高い鉄道橋梁でした。
 1986年(昭和61)の列車転落事故後、列車の走行を制限する風速規制が強化されたことによって列車の運休が相次いだため、2010年(平成22)に、風の影響を受けにくいコンクリート橋への架け替え工事が行われ、旧橋は解体されます。
 しかし、その西側の橋脚部分の一部を活用し、鉄橋展望台として余部鉄橋「空の駅」が、2013年(平成25)にオープンし、先端からは往時の線路や枕木を残した軌道が眺めることができるようになりました。
 尚、2014年(平成26)に、旧余部鉄橋は、「土木学会選奨土木遺産」に認定されています。
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 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、経済学者山田盛太郎の亡くなった日です。
 山田盛太郎は、明治時代後期の1897年(明治30)1月29日に、愛知県葉栗郡黒田町(現在の一宮市木曽川町)で生まれました。愛知県立第一中学校(現在の県立旭丘高校)卒業後、第八高等学校を経て、1920年(大正9)に東京大学経済学部経済学科へ入学します。
 1923年(大正12)に同校卒業後は、東京帝国大学経済学部副手となり、翌々年には助教授となって、マルクスの価値論、再生産論を研究しました。1930年(昭和5)の「共産党シンパ事件」で検挙され退職を余儀なくされ、その後、日本資本主義の研究に進みます。
 1932年(昭和7)には、野呂栄太郎、岩田義道らの『日本資本主義発達史講座』の編集・刊行に参加して論文を執筆しました。それに発表した論文をまとめて、1934年(昭和9)に『日本資本主義分析』を著し、「講座派」の代表者と目されるようになります。そして、櫛田民蔵、猪俣津南雄、向坂逸郎らの「労農派」と「日本資本主義論争」(封建論争ともいう)を繰り広げました。
 しかし、1936年(昭和11)に「コム・アカデミー事件」に連座して再び逮捕・投獄され、1939年(昭和14)に出獄後は、東亜研究所研究員となり、中国農業の研究に従事します。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、東京帝国大学経済学部教授として復職し、法学部講師を兼務し、1950年(昭和25)同大学経済学部長、日本学士院会員にもなりました。
 一方、1947年(昭和42)に中央農地委員会委員、1950年(昭和25)には、農地改革記録委員会委員長となって農地改革にも関わり、翌年『農地改革顛末概要』を発表します。
 1957年(昭和32)に東京大学定年退官後は、専修大学商経学部教授、龍谷大学経営学部教授を歴任しましたが、1980年(昭和55)に、83歳で亡くなりました。
 野呂栄太郎、平野義太郎と並びいわゆる「講座派」マルクス経済学の理論的主柱といわれています。

〇山田盛太郎の主要な著作

・『日本資本主義発達史講座』全7巻(岩波書店・1932~33年)編著
・『日本資本主義分析』(岩波書店・1934年)
・『再生産過程表式分析序論』(改造社・1948年)
・『農地改革の歴史的意義―問題総括への一試論―』(1949年)
・『農地改革顛末概要』(1951年)
・『日本農業再生産構造の基礎的分析』(1962年)
・『戦後目本資本主義における再生産構造の段階と循環に関する基礎的研究』(1963年)
・『戦後再生産構造の段階と農業形態』(1963年)
・『山田盛太郎著作集』(全5巻・別巻1 岩波書店)
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