南方熊楠は、1867年(慶応3年4月15日)に、紀州和歌山城下(現在の和歌山県和歌山市)の金物商の次男として生まれました。
1883年(明治16)和歌山中学(現在の県立桐蔭高校)を卒業し、上京して大学予備門(現在の東京大学教養課程の前身)に入り、石器や土器,動植鉱物の標本採集に熱中しましたが、1886年(明治19)に病気を理由に退学します。
その後渡米し、一時ミシガン州立ランシング農学校に在籍しましたが、またもや中退し、曲馬団の事務員となって、中南米各地を放浪して動植物の観察・採集をしました。
1892年(明治25)に英国に渡り、ロンドン学会の天文学懸賞論文に当選、学会で認められ、各国語に通じていたので大英博物館嘱託となって、「Nature」誌などに論文を寄稿します。
1900年(明治33)に帰国し、和歌山県田辺町(現在の田辺市)に住み、粘菌類(変形菌類)などの採集・研究を進めました。その一方で、民俗学の研究にも取り組み、『太陽』『人類学雑誌』『郷土研究』などの雑誌に多くの論考を寄稿します。
1907年(明治40)から「神社合祀令」に反発し、自然保護の観点から反対運動を起しました。1929年(昭和4)に昭和天皇南紀行幸の際、田辺湾神島に天皇を迎え、御進講や標本の進献などを行います。
大酒豪で奇行も多く、いろいろと逸話も残しましたが、1941年(昭和16)12月29日に田辺の自宅において、74歳で亡くなりました。
菌類の採集研究では約70の新菌種を発見、また、民俗学研究上の代表的な著作としては、『十二支考』『南方閑話』『南方随筆』などがあり、『南方熊楠全集』 (12巻) が出されています。
尚、1965年(昭和40)に、和歌山県白浜町には「南方熊楠記念館」が出来、2006年(平成18)に、和歌山県田辺市には、旧居に隣接して「南方熊楠顕彰館」が開館しました。