大正時代から昭和時代前期に活躍したプロレタリア文学の小説家で、香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)で、貧農の長男に生まれました。
1914年(大正3)に内海実業補習学校を卒業後、島の船山醬油会社の醸造工となりますが、1年ほどで退職します。1917年(大正6)には、文学を志して上京し、建物会社に勤めながら小説の勉強をし、1919年(大正8)早稲田大学予科の選科生となりました。
同年に招集されて、衛生兵として入隊し、1921年(大正10)にシベリア出征したものの、胸を患って帰国します。
その後、島で療養しながら、1923年(大正12)処女作「窃む女」を書きました。再び上京して、壺井繁治・栄夫妻の家に寄宿し、1925年(大正14)発表の「電報」「結核病室」で世に知られるようになりました。
翌年、『文芸戦線』に「二銭銅貨」「豚群」を発表し、同人となって、農民文学の作家として注目されます。一方、1927年(昭和2)年に労農芸術家連盟(労芸)創立に参加し、『橇(そり)』(1927年)、『渦巻ける烏の群』(1928年)ではシベリア従軍体験に根ざした優れた反戦文学を結実させ、プロレタリア文学の作家として活動しました。
しかし、1930年(昭和5)に脱退し、全日本無産者芸術連盟(ナップ)所属の日本プロレタリア作家同盟に参加するものの、1933年(昭和8)には、結核療養のため小豆島に帰ります。その後、1943年(昭和18)年10月17日、郷里小豆島において44歳で病死しました。
〇黒島伝治の主要な作品
・『窃む女』 (1923年)
・『電報』 (1925年)
・『結核病室』 (1925年)
・『二銭銅貨』 (1926年)
・『豚群』 (1926年)
・『橇 (そり) 』 (1927年)
・『雪のシベリア』 (1927年)
・『渦巻ける烏の群』 (1928年)
・『パルチザン・ウオルコフ』 (1928年)
・『氷河』 (1929年)
・『砂金』(1930年)
・『浮動する地価』(1930年)
・『武装せる市街』(1930年)
・『腹の胼胝』(1930年)
・『国境』 (1931年)
・『前哨』 (1932年)