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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、東京帝国大学に於いて物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を口頭で発表した日です。その翌年3月に「フィロソフィカル・マガジン」に、トムソンの論文と同時に掲載されました。
 この理論は、原子は土星のように中心に質量の大きな原子核をもち、その周囲に環のようになって電子が軌道運動をしているというモデルです。1911年(明治44)にラザフォードが実験によってこのモデルが正しいという根拠を与えたましが、原子核の大きさははるかに小さいもので、後の原子模型のヒントを提供したものでした。

〇長岡半太郎とは?
 明治時代から昭和時代前期にかけて活躍した物理学者です。幕末の1865年(慶応元年6月28日)に、肥前国大村(現在の長崎県大村市)で、大村藩藩士長岡治三郎の一人息子として生まれました。
 1874年(明治7)に一家とともに上京し、本郷区湯島小学校に入学、共立学校を経て、東京英語学校(東京大学予備門)に進学します。
 1882年(明治15)に東京大学理学部へ入学し、C.G.ノットの指導の下で全国地磁気測量に参加しました。卒業後は、大学院へ進み、磁気のひずみの実験や回折の数理物理学的な研究などを行い、1890年(明治23)に同大の助教授となります。
 1893年(明治26)から約3年間、ドイツ、オーストリアに留学し、ヘルムホルツ、ボルツマン、プランクらに学び、帰国して、1896年(明治29)に東京帝国大学教授となりました。
 1903年(明治36)に土星型原子模型を発表して注目され、1917年(大正6)理化学研究所創立とともに研究員となり、1931年(昭和6)大阪帝国大学初代総長、1939年(昭和14)帝国学士院長と要職を歴任します。
 その間、1928年(昭和3)勲二等旭日重光章、1937年(昭和12)第1回文化勲章の受章などの栄誉にも輝きました。
 実験物理学と理論物理学の両面にわたって活動し、多くの弟子を育てて、日本の物理学の水準を国際的な高さに引き上げましたが、1950年(昭和25)12月11日に、85歳で亡くなっています。