F・L・ヴェルーニは、横須賀製鉄所を造ると共に、日本で最初に西洋式灯台の設計・建設を担当したフランス人技師で、本名をフランソワ・レオン・ヴェルニーといい、フランス東部のアルデシュ県オーベナで生まれました。
リヨンの国立高等中学校に学び、1856年パリのエコール・ポリテクニク(理工科大学)に入学。23歳で海軍造船大学校を卒業後、海軍造船官として、ブレスト工廠で船舶の修理などを担当しました。
1864年には、中国へ赴任し開港場の寧波(ニンポー)で艦船建造に従事し、その後徳川幕府の要請を受け、1865年(慶応元)に来日、横須賀製鉄所の計画立案から実際の建設指導、さらに経営にも首長として携わります。
一方、江戸幕府は、1866年(慶応2)5月に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と「改税条約」(江戸条約)を締結し、西洋灯台の建設を約束しました。そして、1867年(慶応3)末、イギリス、アメリカ、フランスの合同調査に基づき、最も緊急性が高いものとして、観音埼、野島埼、城ヶ島、品川(第二砲台)の4つの灯台建設を優先的に着工することを決めたのです。
そして、すでに1866年(慶応2)4月に再度来日し、横須賀製作所に着任していたF・L・ヴェルニーに灯台建設を依頼することになったのです。ただし、その直後に、江戸幕府が倒れたため、工事の着工は延期されることになります。そして、日本初の西洋式灯台の建設が、1868年11月1日(旧暦:明治元年8月30日)起工の観音埼灯台で始まり、翌1869年2月11日(旧暦:明治2年1月1日)に、初点灯しました。その後、野島埼、品川(第二砲台)、城ヶ島と計4つの灯台が、F・L・ヴェルニーを首長とするフランス人技師によって完成されましたが、その後の灯台建設は、主にイギリス人技師、R・H・ブラントンに委ねられることになりました。
それからも、F・L・ヴェルーニは横須賀製鉄所の首長(所長)として、日本で活躍すること12年におよび造船等の発展に寄与し、日本滞在中に1男2女を儲けました。
横須賀製鉄所の首長を解雇され、1876年(明治9)3月13日にフランスへ帰国しましたが、ローヌ県の海軍工廠でしばらく監督業務を務めた後、海軍を退職します。
それからは、サンテティエンヌの鉱山経営に力を注いだものの、1908年5月2日に故郷オブナにおいて、70歳で亡くなりました。