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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に小説家小林多喜二が生まれた日です。 
 昭和時代前期に活躍した小説家で、1903年(明治36)12月1日、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)に、小作農家の次男として生まれました。
 一家で北海道小樽市に移住、小樽商業学校から小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)へ進学したのです。学生時代から文学活動に積極的に取り組み、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加も始めました。
 卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務し、1928年(昭和3)に、「一九二八年三月十五日」を雑誌『戦旗』に発表します。翌1929年(昭和4)に「蟹工船」を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めました。
 その後、発表した『不在地主』等作品が元で北海道拓殖銀行を解雇され、1930年(昭和5)春に東京へ転居し、日本プロレタリア作家同盟書記長となったのです。
 1931年(昭和6)に非合法の日本共産党に入党し、地下活動のさなか、1933年(昭和8)2月20日に特高警察の手によって、29歳で虐殺されました。

〇小林多喜二の主要な作品
・「一九二八年三月十五日」(1928年)
・「人を殺す犬」(1928年)
・「防雪林」(1928年)
・「蟹工船」(1929年)
・「不在地主」(1929年)
・「工場細胞」(1930年)
・「北海道の「俊寛」」(1930年)
・「争われない事実」(1931年)
・「父帰る」(1931年)
・「テガミ」(1931年)
・「独房」(1931年)
・「疵」(1931年)
・「転形期の人々」(1931年-32年)
・「級長の願い」(1932年)
・「沼尻村」(1932年)
・「党生活者」(1932年)
・「雪の夜」
・「地区の人々」(1933年)

〇小林多喜二の代表作「蟹工船」とは?
 小林多喜二著の中編小説で、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌『戦旗』に発表され、同年戦旗社より刊行されました。
 当時のオホーツク海で操業する“蟹工船”で、奴隷のように働かされる労働者が、力をあわせて立ち上がるという物語で、プロレタリア文学の代表作とされ、国際的評価も高いのです。

☆小説「蟹工船」の冒頭部分

「おい地獄さ行えぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱かかえ込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。
 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥はげた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。

(後略)