ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年11月

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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、小説家・劇作家三島由紀夫の亡くなった日で、憂国忌とも呼ばれています。
 三島由紀夫は、大正時代の1925年(大正14)1月14日に、東京市四谷区(現在の東京都新宿区)で、父平岡梓(あずさ)と母倭文重(しずえ)の長男としてに生まれましたが、本名は平岡公威といいました。1931年(昭和6)に学習院初等科に入り、高等科まで学習院で学び、この中で文学活動を始めます。
 1944年(昭和19)に東京帝国大学法学部に入学し、処女短編集『花ざかりの森』を刊行し、太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に川端康成の推薦で、短編『煙草』を発表しました。
 1947年(昭和22)卒業後は、大蔵省に勤めたものの、9ヶ月で退職して本格的な作家生活を開始します。そして、1949年(昭和24)に長編小説『仮面の告白』を刊行し、作家としての地位を確立しました。
 続いて、小説では、『愛の渇き』、『青の時代』(1950年)、『潮騒』(1954年)、『金閣寺』(1956年)、『鏡子の家』(1959年)など、戯曲では、『近代能楽集』(1956年)、『鹿鳴館』(1957年)などの代表作を発表し、戦後の日本文学界を代表する作家の一人となります。
 その後は、自衛隊に体験入隊し、「楯(たて)の会」を結成するなどナショナリズムに傾斜し、長編小説『豊饒の海』を書き続けましたが、1970年(昭和45)11月25日に、45歳で自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んで割腹自殺しました。

〇三島由紀夫の代表的な作品

<小説>
・『仮面の告白』(1949年)
・『愛の渇き』(1950年)
・『青の時代』(1950年)
・『禁色』 (1951~1953年)
・『潮騒』(1954年)
・『金閣寺』(1956年)
・『鏡子の家』(1959年)
・『宴のあと』(1960年)
・『憂国』(1961年)
・『絹と明察』(1964年)
・『英霊の声』 (1966年)
・『太陽と鉄』 (1965~1968年)
・『豊饒の海』(1965~1970年)

<戯曲>
・『近代能楽集』(1956年)
・『鹿鳴館』(1957年)
・『サド侯爵夫人』(1965年)
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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、平塚らいてうにより新婦人協会の設立が発表された日です。
 これは、日本で最初に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体です。1919年(大正8)11月24日に平塚らいてうが呼びかけ、市川房枝、奥むめお、坂本真琴、山田わからが応じて、活動を始めました。1920年(大正9)3月28日に、70名(内男子約20名)が集まって発会式を行い、宣言、綱領、規約を発表し、その後、名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に支部が出来、会員は400名を数えるようになります。
 男女同権、母性保護、女性の権利向上等を掲げ、最初の運動として、女子の政治的活動を封じている「治安警察法」5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題に取り組みました。
 また、機関紙『女性同盟』の発刊や講演会等によって、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めます。
 その結果、1922年(大正11)の第45帝国議会で「治安警察法」5条の一部改正を成立させ、女子も政談演説会を聴く自由とその発起人になる権利を獲得しました。
 しかし、同年12月8日に内部対立のため解散するに至ります。約3年間の活動だったものの、日本の婦人参政権運動史上に大きな役割を果たしました。

〇新婦人協会創立当初の役員
<理事>
 平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
<評議員>
 坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都

〇新婦人協会の宣言
 婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました。今こそ婦人は婦人自身の教養、その自我の充実を期するのみならず、相互の堅き団結の力によって、その社会的地位の向上改善を計り、婦人としての、母としての権利の獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。
 若しこの時に於いて、婦人が立たなければ、到来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません。そしてそこに世界、人類の禍の大半が置かれるのだと思います。
 私共は日本婦人がいつまで無知無能であるとは信じません。否、既に我が婦人界は今日見るべき学識あり、能力ある幾人かの新婦人を有ってゐます。しかも私共は是等の現われたる婦人以外に、なお多くの更に識見高き、思慮あり、実力ある隠れたる婦人のあることを疑ひません。
 しかるに是等の婦人の力が一つとして社会的に若しくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありませう。まったく婦人相互の間に何の連絡も無く、各自孤立の状態にあって、少しもその力を婦人共同の目的のために一つにしやうというやうな努力もなく、又そのための機関もないからではないでせうか。私共はさう信ずるものであります。
 是私共が微力を顧みず、同志を糾合し、つとに婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、婦人相互の団結をはかり、堅忍自給の精神をもって、婦人擁護のため、その進歩向上のため、あるいは利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達っせんことを期する所以であります。

〇新婦人協会の綱領
一、婦人の能力を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張すること。
一、男女の価値同等観の上に立ちてその差別を認め協力を主張すること。
一、家庭の社会的意義を闡明(せんめい)にすること。
一、婦人、母、子供の権利を雍護し、彼等の利益の増進を計ると共に之に反する一切を排除すること。

〇新婦人協会の規約(事業内容)
一、女子高等教育、小学大学の男女共学、婦人参政権、婦人に不利なる諸法制の改廃、母性保護等の要求をなすために実際運動を開始すること。
一、各地の有力なる婦人団体と連絡を計り、婦人共同の利益に対する日本婦人総同盟を組織すること。
一、婦人に関する諸種の特種問題の研究調査会を設くる事。
一、婦人問題、労働問題、生活問題及其他諸種の社会問題に関する講演会を各地にて開くこと。
一、機関雑誌「女性同盟」の発刊。
一、婦人労働者の教化機関として学校を設置し、婦人労働新聞を発刊し、健全にして実力ある婦人労働組合を組織する基礎を造る事。
一、婦人身上相談、職業紹介、結婚媒介。
一、女子大学講座の開設。
一、事務所、公会所、教室、婦人共同寄宿所、婦人簡易食堂、娯楽所、運動場、図書館等を含む婦人会館の建設。

                 児玉勝子著『婦人参政権運動小史』より
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 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、小説家樋口一葉の亡くなった日で、一葉忌と呼ばれています。
 樋口一葉は、1872年5月2日(明治5年3月25日)に、東京府第二大区一小区内幸町(現在の東京都千代田区)で、父樋口為之助(則義)と母多喜の第五子として生まれましたが、本名は樋口夏子(戸籍名は奈津)といいました。
 本郷小学校、私立吉川学校を経て、私立青海学校小学高等科第四級を卒業します。1886年(明治19)に、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し、和歌、書、古典文学を学びました。
 いろいろと転居し、生活に苦しみながら、文芸雑誌『都の花』『文学界』等に寄稿するようになります。そして、1894年(明治27)頃からわずか1年半で「大つごもり」(1894年12月)、「たけくらべ」(1895年1月)、「にごりえ」(1895年9月)「十三夜」(1895年12月)といった秀作を発表しました。
 日本のロマン主義の小説家として、森鴎外や幸田露伴はじめ、文壇から絶賛されましたが、1896年(明治29)11月23日に、24歳6ヶ月の若さで肺結核により死去したのです。

〇樋口一葉の主要な作品

<小説>
・「闇桜」(1892年3月『武蔵野』)
・「別れ霜」(1892年4月『改進新聞』)
・「たま欅」(1892年4月『武さし野』)
・「五月雨」(1892年7月『武さし野』)
・「経づくえ」(1892年10月『甲陽新報』)
・「うもれ木」(1892年11月『都之花』)
・「雪の日」(1893年3月『文學界』)
・「琴の音」(1893年12月『文學界』)
・「花ごもり」(1894年2月『文學界』)
・「暗(やみ)夜」(1894年7月『文學界』)
・「大つごもり」(1894年12月『文學界』)
・「たけくらべ」(1895年1月 - 1896年1月『文學界』)
・「軒もる月」(1895年4月『毎日新聞』)
・「ゆく雲」(1895年5月『太陽』)
・「うつせみ」(1895年8月『読売新聞』)
・「にごりえ」(1895年9月『文芸倶楽部』)
・「十三夜」(1895年12月『文芸倶楽部』)
・「わかれ道」(1896年1月『国民之友』) 未完
・「われから」(1896年5月『文芸倶楽部』)

<随筆>
・「雨の夜―そゞろごと」(1895年9月『読売新聞』)
・「月の夜―そゞろごと」(1895年9月『読売新聞』)
・「雁がね―そゞろごと」(1895年10月『読売新聞』)
・「虫の声―そゞろごと」(1895年10月『読売新聞』)
・「ほとゝぎす―すゞろごと」(1896年7月『文芸倶楽部』)
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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まった日です。
 この会談は、1943年(昭和18)11月22日から26日まて、エジプトのカイロにアメリカ(ルーズベルト)、イギリス(チャーチル)、中国(蒋介石)の3ヶ国政府首脳が集まり、対日戦争と戦後処理について具体的に討議した最初の会議でした。
 その協議の上、3ヶ国政府首脳が第二次世界大戦における対日戦について合意した基本方針について、11月27日に署名し、12月1日に「カイロ宣言」として発表します。
 内容は、日本の無条件降伏要求と、降伏後の日本領土の決定などを決めたもので、その後の対日政策の基本となり、「ポツダム宣言」に引き継がれました。
 尚、12月2日から7日まで、再びカイロに於いて、アメリカ(ルーズベルト)、イギリス(チャーチル)、トルコ(イノニュ)との間で会談が持たれています。

☆「カイロ宣言」 (全文) 1943年(昭和18)11月27日調印  

The Cairo Declaration

President Roosevelt, Generalissimo Chiang Kai-shek and Prime Minister Churchill, together with their respective military and diplomatic advisers, have completed a conference in North Africa.

The following general statement was issued:

"The several military missions have agreed upon future military operations against Japan. The Three Great Allies expressed their resolve to bring unrelenting pressure against their brutal enemies by sea, Iand, and air. This pressure is already rising.

"The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion. It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and the Pescadores, shall be restored to the Republic of China. Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.

"With these objects in view the three Allies, in harmony with those of the United Nations at war with Japan, will continue to persevere in the serious and prolonged operations necessary to procure the unconditional surrender of Japan."

【日本の外務省による訳文】

カイロ宣言(日本国ニ関スル英,米,華三国宣言)

「ローズヴェルト」大統領,蒋介石大元帥及「チァーチル」総理大臣ハ各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明発セラレタリ

「各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ

三大同盟国ハ海路,陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ

右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ満洲,台湾及膨湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スベシ」

                       外務省編『日本外交主要文書・年表(1)』より

【現代語訳】

カイロ宣言

ルーズベルト大統領、総統蒋介石とチャーチル首相、彼らそれぞれの軍事・外交顧問とともに北アフリカでの会議が完了した。
次の一般的な声明が出された。

「いくつかの軍事使節が日本に対する将来の軍事作戦に合意した。

3大同盟国は、海路、陸路および空路によって残忍な敵に対して容赦のない圧力をもたらすという決意を表明した。この圧力は、すでに増大している。

3大同盟国は、日本の侵略を抑制し、罰するためにこの戦争を戦っている。同盟国は彼ら自身のための利益をむさぼっておらず、領土拡張の考えもない。

同盟国の目的は、1914年の第一次世界大戦の初め以来、日本に占められた太平洋の島はすべて剥奪されることと、満州、台湾、澎湖諸島といった日本が中国から盗んだすべての領土を中華民国に返還しなければならないことにある。

日本は、暴力と貪欲によって、奪取した他のすべての地域からも追放される。

前述の3大国は、朝鮮の人々の奴隷状態に留意し、自由で独立した朝鮮のための道筋をつくる決意を有する。

これらの目的をもって3同盟国は、同盟諸国の中で日本との戦争をしている諸国と協調し、引き続き日本を無条件降伏させるために必要な重大で長期の行動を続行する。」

                       *英語の原文より訳しました。
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 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、歌人・美術史家・書道家会津八一の亡くなった日ですが、八一忌または秋艸忌とも呼ばれています。
 会津八一は、明治時代前期の1881年(明治14)8月1日に、新潟県蒲原郡新潟町(現在の新潟市中区古町通五番町)で、生まれました。
 1900年(明治33)に新潟尋常中学校(現在の新潟県立新潟高等学校)を卒業後、東京専門学校(1902年から早稲田大学)に入学します。
 1906年(明治39)早稲田大学英文科を卒業後新潟に戻り、私立有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)の英語教員となりましたが、この頃から、奈良の仏教美術に興味を持つようになり、短歌を始めました。
 1910年(明治43)に坪内逍遙の招聘により、上京して早稲田中学校の英語教員となり、1913年(大正2)には、早稲田大学英文科講師を兼任するようになります。1918年(大正7)に、38歳の若さで早稲田中学校の教頭に就任し、奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくりました。
 1924年(大正13)には、第一歌集『南京新唱』を刊行、翌年には早稲田高等学院教授となりました。1926年(大正15)以降は、早稲田大学で東洋美術史を講じるようになり、1931年(昭和6)には、早稲田大学文学部教授となったのです。
 1933年(昭和8)「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」をもって文学博士の学位を授与され、1940年(昭和15)『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』、1942年(昭和17)『渾斎随筆』、1944年(昭和19)歌集『山光集』をそれぞれ刊行しました。
 1945年(昭和20)には、早稲田大学教授を辞任、空襲により罹災したため、新潟に帰郷します。奈良の古美術などを主題にした、総ひらがなの万葉調和歌や独特の書で知られ、太平洋戦争後は、1950年(昭和25)の『会津八一全歌集』で読売文学賞を受賞、翌年には新潟市名誉市民ともなりましたが、1956年(昭和31)11月21日に、75歳で亡くなりました。

〇会津八一の代表的著作

<論文>
・『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(1933年)

<歌集>
・『南京新唱(なんきょうしんしょう)』(1924年)
・『南京余唱』(1934年)
・『村荘雑事』(1934年)
・『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』(1940年)
・『山光集』(1944年)
・『山鳩』(1945年)
・『寒燈集(かんとうしゅう)』(1947年)
・『會津八一全歌集』(1951年)
・『自註 鹿鳴集』(1953年)
・『春日野(かすがの)の歌』(1955年)

<随筆集>
・『渾斎随筆』(1942年)

<書跡集>
・『遊神帖』(1947年)
・『渾齋近墨』(1941年)
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