官営八幡製鉄所は、明治時代中頃に近代工業が発達してきたのと日清戦争を契機とする鉄鋼需要増加に応え、軍備増強および産業資材用鉄鋼の生産増大をはかるため、1896年(明治29)の第9回帝国議会で官営製鉄所建設案が可決、「製鉄所官製」が公布されたことに基づいて建設が決まりました。
日清戦争による清国からの賠償金の一部を使用し、ドイツ人技師グーテホフヌングスヒュッテの指導を受けて、翌年から福岡県遠賀郡八幡村(現在の北九州市八幡東区)で建設が始まります。筑豊炭田を後背に抱え、石炭を大量・迅速に調達できることと鉄鉱石の輸送・運搬に適した港を持っていることなどから適地と考えられました。
1899年(明治32)に、中国湖北省ターイエ(大冶)鉄鉱山の鉄鉱を原料とする長期契約が結ばれ、日本初の近代的銑鋼一貫工場とされます。1901年(明治34)2月5日に東田第一高炉で火入れが行われ、同年11月18日に作業開始式が行われて、操業が始まりました。
当初は農商務省の管轄でしたが、日露戦争後は飛躍的発展を遂げて全国の鉄鋼生産の7~8割を占めるようになり、1925年(大正14)には商工省の所管となります。そして、1934年(昭和9)に、民間製鉄5社と合併し、半官半民の日本製鉄となりました。
太平洋戦争後の1950年(昭和25)に、「過度経済力集中排除法」の適用を受けて、日本製鉄は、富士製鉄と八幡製鉄に分割されますが、1970年(昭和45)に、再び富士製鉄と合併して新日本製鐵となり、2012年(平成24)には、新日本製鐵と住友金属工業が合併し、新日鐵住金八幡製鐵所となって現在に至ります。
尚、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から八幡製鐵所関連遺産が「近代化産業遺産」に認定され、2015年(平成27)には、官営八幡製鉄所関連の旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場(福岡県北九州市)、遠賀川水源地ポンプ室(福岡県中間市)の4資産が「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されました。