ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年10月

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 今日は、昭和時代後期の1971年(昭和46)に、小説家志賀直哉の亡くなった日ですが、直哉忌と呼ばれています。
 志賀直哉は、明治時代後期から昭和時代に活躍した小説家で、1883年(明治16)2月20日に宮城県石巻市に生まれ、学習院から東京帝国大学文学部に学びました。
 1910年(明治43)武者小路実篤、有島武郎、有島生馬、里見弴らと『白樺』を創刊して、リアリズムとヒューマニズムに基づく小説を発表し、注目されるようになります。
 色々な文学者に影響を与え、日本的私小説の完成者とされています。『網走まで』『和解』『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『灰色の月』などの作品で知られていますが、代表作は『暗夜行路』です。
 戦後も活躍しましたが、1971年(昭和46)10月21日に88歳で亡くなりました。

〇志賀直哉の主要な作品
・『網走まで』(1910年)
・『大津順吉』(1912年)
・『正義派』(1912年)
・『母の死と新しい母』(1912年)
・『清兵衛と瓢箪』(1913年)
・『范の犯罪』(1913年)
・『児を盗む話』(1914年)
・『城の崎にて』(1917年)
・『赤西蠣太』(1917年)
・『和解』(1917年)
・『宿かりの死』(1917年)
・『十一月三日午後の事』(1919年)
・『小僧の神様』(1920年)
・『焚火』(1920年)
・『山科の記憶』(1926年)
・『邦子』(1927年)
・『万暦赤絵』(1933年)
・『暗夜行路』(1937年)
・『灰色の月』(1946年)
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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、源平合戦(治承・寿永の乱)の富士川の戦いが行われた日ですが、新暦では11月9日となります。
 富士川の戦いは、源頼朝・武田信義軍と平維盛軍が、富士川の河口付近で戦ったものです。夜陰に乗じて、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れると、水鳥が反応し一斉に飛び立ちました。これに驚いた平家方は大混乱に陥って、敗走したといわれています。
 古戦場跡の伝承地には、「平家越」の碑(静岡県富士市)が建てられました。また、戦の後で、離れ離れになっていた源頼朝と義経の劇的な対面があったと言われ、その伝承地である黄瀬川八幡神社(静岡県駿東郡清水町)に対面石があります。

〇源平合戦(治承・寿永の乱)とは?
 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。
 この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。
 有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係年表(日付は旧暦です)

〇保元元年(1156年)
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

〇平治元年(1159年)
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

〇永暦元年(1160年)
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

〇仁安2年(1167年)
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

〇嘉応2年(1170年)
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

〇承安2年(1172年)
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

〇治承元年(1177年)
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

〇治承3年(1179年)
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

〇治承4年(1180年)
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

〇養和元年(1181年)
・閏2月4日 平清盛が病没する

〇寿永2年(1183年)
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

〇寿永3年(1184年)
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一の谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

〇寿永4年(1185年)
・2月7日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、平氏は滅亡する
・11月 源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる

〇文治3年(1187年)
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

〇文治5年(1189年)
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する
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 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、日本とソビエト連邦が、「日ソ共同宣言」に調印した日です。
 これは、ソビエト連邦のモスクワで署名された、日本とソビエト連邦の共同宣言です。正式には「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」といい、同年12月12日に発効しました。
 その内容は、第二次大戦における両国間の戦争状態の終結、国交の回復、国連憲章の原則、自衛権、内政不干渉の原則の確認、日本の国連加入の支持、日本人抑留者の送還、賠償その他の戦争請求権の相互放棄などを規定しています。
 しかし、国境確定問題は先送りされ、平和条約の締結交渉が継続されることを確認し、平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を日本側に引き渡すこととなりました。

〇日ソ共同宣言 (全文) [正文は日本語・ロシア語] 1956年(昭和31)10月19日

日ソ共同宣言(日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言)

 千九百五十六年十月十三日から十九日までモスクワで,日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦の全権団の間で交渉が行われた。

 日本国側からは,

内閣総理大臣 鳩山一郎

農林大臣   河野一郎

衆議院議員  松本俊一

が参加し,

 ソヴィエト社会主義共和国連邦側からは,

ソヴィエト連邦大臣会議議長  エヌ・ア・ブルガ-ニン

ソヴィエト連邦最高会議幹部会員  エヌ・エス・フルシチョフ

ソヴィエト連邦大臣会議議長第一代理  ア・イ・ミコヤン

ソヴィエト連邦第一外務次官  ア・ア・グロムィコ

ソヴィエト連邦外務次官  エヌ・テ・フェドレンコ

が参加した。

相互理解と協力のふん囲気のうちに行われた交渉を通じて,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との相互関係について隔意のない広範な意見の交換が行われた。日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間の外交関係の回復が極東における平和及び安全の利益に合致する両国間の理解と協力との発展に役だつものであることについて完全に意見が一致した。

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦の全権団の間で行われたこの交渉の結果,次の合意が成立した。

1 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は,この宣言が効力を生ずる日に終了し,両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。

2 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間に外交及び領事関係が回復される。両国は,大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また,両国は,外交機関を通じて,両国内におけるそれぞれの領事館の開設の問題を処理するものとする。

3 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,相互の関係において,国際連合憲章の諸原則,なかんずく同憲章第二条に掲げる次の原則を指針とすべきことを確認する。

(a)その国際紛争を,平和的手段によつて,国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように,解決すること。

(b)その国際関係において,武力による威嚇又は武力の行使は,いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも,また,国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むこと。

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,それぞれ他方の国が国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有することを確認する。

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,経済的,政治的又は思想的のいかなる理由であるとを問わず,直接間接に一方の国が他方の国の国内事項に干渉しないことを,相互に,約束する。

4 ソヴィエト社会主義共和国連邦は,国際連合への加入に関する日本国の申請を支持するものとする。

5 ソヴィエト社会主義共和国連邦において有罪の判決を受けたすべての日本人は,この共同宣言の効力発生とともに釈放され,日本国へ送還されるものとする。

また,ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要請に基いて,消息不明の日本人について引き続き調査を行うものとする。

6 ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,千九百四十五年八月九日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国,その団体及び国民のそれぞれ他方の国,その団体及び国民に対するすべての請求権を,相互に,放棄する。

7 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,その貿易,海運その他の通商の関係を安定したかつ友好的な基礎の上に置くために,条約又は協定を締結するための交渉をできる限りすみやかに開始することに同意する。

8 千九百五十六年五月十四日にモスクワで署名された北西太平洋の公海における漁業に関する日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の条約及び海上において遭難した人の救助のための協力に関する日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の協定は,この宣言の効力発生と同時に効力を生ずる

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,魚類その他の海洋生物資源の保存及び合理的利用に関して日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦が有する利害関係を考慮し,協力の精神をもつて,漁業資源の保存及び発展並びに公海における漁猟の規制及び制限のための措置を執るものとする。

9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。

 ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

10 この共同宣言は,批准されなければならない。この共同宣言は,批准書の交換の日に効力を生ずる。批准書の交換は,できる限りすみやかに東京で行われなければならない。

 以上の証拠として,下名の全権委員は,この共同宣言に署名した。

千九百五十六年十月十九日にモスクワで,ひとしく正文である日本語及びロシア語により本書二通を作成した。

日本国政府の委任により

鳩山一郎

河野一郎

松本俊一

ソヴィエト社会主義共和国連邦最高会議幹部会の委任により

N・ブルガ-ニン

D・シェピ-ロフ

                    「日本外交主要文書・年表(1)」より
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 今日は、1945年(昭和20)に、小説家葉山嘉樹の亡くなった日です。
 葉山嘉樹は、大正時代から昭和時代前期に活躍したプロレタリア文学の小説家で、本名は嘉重といいます。
 1894年(明治27年)3月12日に、 福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)の旧小倉藩士族の父荒太郎(京都郡郡長)の子として生まれました。
 1913年(大正2)に旧制豊津中学(現在の福岡県立育徳館高等学校)を卒業し、早稲田大学高等予科文科に進学します。
 しかし、学費未納により除籍され、横浜へ転居して職を転々とした後、カルカッタ航路の貨物船に水府見習いとして乗船しました。
 下船後は、1917年(大正6)頃から私立明治専門学校(現在の九州工業大学)の職員となりましたが、1920年(大正9)に馘首され、名古屋セメント会社に勤務します。しかし、労働組合を作ろうとして、首になり、「名古屋新聞」に勤めるようになって、労働問題担当記者となり、同時に名古屋労働者協会に参加し、労働争議を指導しました。
 1923年(大正12)に、「名古屋共産党事件」で検挙、名古屋刑務所に投獄され、獄中で「淫売婦」「難破」を執筆します。1925年(大正14)に出獄後、「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」を『文芸戦線』に発表しました。翌年には、「海に生くる人々」を改造社から出版し、プロレタリア作家として、注目されます。
 その後、プロレタリア文学運動の組織が分裂・統合する中で、労農芸術家連盟に属し、その代表的作家として活躍しました。
 思想統制が厳しくなると、1934年(昭和9)1月に土木工事の帳付けとして長野県下伊那に移住、現地で小説を書きながら、以後各地を転々とします。
 そして、1945年(昭和20)6月に、満蒙開拓団員として満州北安省に赴き、敗戦後引揚げ列車の車中で、同年10月18日に51歳で病没しました。

〇葉山嘉樹の主な著作

・「淫賣婦」 (春陽堂 1926年)  
・「海に生くる人々」 (改造社 1926年) 
・「浚渫船」 (春陽堂 1927年)
・「新選葉山嘉樹集」 ( 改造社 1928年)
・「勞働者の居ない船」 (1929年 改造文庫)
・「稚き鬪士」 (日本評論社 1930年)
・「誰が殺したか?」 (日本評論社 1930年)
・「仁丹を追つかける」 (塩川書房 1930年)
・「葉山嘉樹全集」 (改造社 1933年)
・「今日様」 (ナウカ社 1935年)
・「山谿に生くる人人」 (竹村書房 1938年)
・「海と山と」 (河出書房 1939年)
・「流旅の人々」 (春陽堂 1939年)
・「山の幸」 (日本文学社 1939年)
・「濁流」 (新潮社 1940年)
・「葉山嘉樹随筆集」 (春陽堂書店 1941年)
・「裸の命」 (日本出版社 1946年)
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 今日は、江戸時代後期の1803年(享和3)に、蘭学者・医師前野良沢の亡くなった日ですが、新暦では11月30日となります。
 前野良沢は、江戸時代の蘭学者・医師で、『解体新書』の翻訳者の一人として知られていますが、名は熹、字は子悦、号は楽山、蘭化といいました。
 江戸時代中期の1723年(享保8)に、筑前藩士谷口新介の子として江戸牛込矢に生まれます。幼少の時、父母を亡くし、淀藩の医師で伯父の宮田全沢に養育されました。
 1748年(寛延元)に、中津藩医師前野東元の養子となり、吉益東洞流医学を修め、その後中津藩医となります。
 40代で蘭学を志し、青木昆陽についてオランダ語を学び、長崎への遊学もしました。その時に、西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れ、江戸に持ち帰って、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周らと翻訳に励みます。3年5ヶ月を費やして、翻訳書『解体新書』(1774年刊行)を完成させました。
 それからも医学、語学、物理、地理、歴史、築城など多方面のオランダ書の翻訳に打ち込みましたが、1803年(享和3年10月17日)に、81歳で亡くなります。

〇前野良沢の主な著訳書

・『管蠡秘言』
・『和蘭訳筌』
・『和蘭築城書』
・『輿地図編小解』
・『西洋画賛訳文稿』
・『仁言私説』
・『和蘭訳文略』
・『蘭語随筆』
・『魯西亜本紀』
・『蘭学階梯』
・『魯西亜本記略』
・『字学小成』
・『翻訳運動法』
・『東砂葛記』
・『魯西亜大統略記』、
・『和蘭築城法』
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