ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年10月

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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺された日です。
 伊藤博文は、幕末から明治時代に活躍した政治家で、幼名は利助、のち俊輔、博文は諱です。
 1841年(天保11)に、周防(現在の山口県)の貧農の家に生まれました。後に、父が伊藤家を継いで、士分となりました。
 吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、久坂玄瑞らと尊王攘夷運動に挺身することになります。1863年(文久3)イギリスに留学しましたが、帰国後は開国をとなえ倒幕運動に活躍しました。
 1871年(明治4)岩倉遣欧使節団の全権副使となり、大久保利通の没後は、内務卿となります。その後、大日本帝国憲法の立案に当たり、1885年(明治18)に内閣制度を創設して、初代総理大臣となりました。
 枢密院・貴族院の初代議長を歴任し、のち、立憲政友会を組織して、総裁に就任します。日露戦争後、初代韓国統監となりましたが、1909年(明治42)10月26日、69歳の時にハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺されました。

〇明治時代の内閣総理大臣一覧

1. 伊藤博文(第1次伊藤内閣) 1885年12月22日~1888年4月30日
2. 黒田清隆(黒田内閣) 1888年4月30日~1889年10月25日
3. 山縣有朋(第1次山縣内閣) 1889年12月24日~1891年5月6日
4. 松方正義(第1次松方内閣) 1891年5月6日~1892年8月8日
5. 伊藤博文(第2次伊藤内閣) 1892年8月8日~1896年8月31日
6. 松方正義(第2次松方内閣) 1896年9月18日~1898年1月12日
7. 伊藤博文(第3次伊藤内閣) 1898年1月12日~1898年6月30日
8. 大隈重信(第1次大隈内閣) 1898年6月30日~1898年11月8日
9. 山縣有朋(第2次山縣内閣) 1898年11月8日~1900年10月19日
10.伊藤博文(第4次伊藤内閣) 1900年10月19日~1901年5月10日
11.桂太郎(第1次桂内閣) 1901年6月2日~1906年1月7日
12,西園寺公望(第1次西園寺内閣) 1906年1月7日~1908年7月14日
13.桂太郎(第2次桂内閣) 1908年7月14日~1911年8月30日
14.西園寺公望(第2次西園寺内閣) 1911年8月30日~1912年12月21日
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 今日は、江戸時代前期の1637年(寛永14)に、島原の乱(島原・天草一揆)が起きた日ですが、新暦では12月11日となります。
 これは、日本の歴史上最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれました。以前この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、住民にもキリスト教徒が多かったのですが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、天草の領主は寺沢氏に代り、1615年(元和元)に、島原の領主が松倉氏に代ったのです。
 寺沢氏・松倉氏は、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への過重な年貢の負担を強制し、滞納する者には重罰を課しました。
 その中で、1637年(寛永14年10月25日)に、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害し、これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起します。
 豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(16歳)が首領に推され、商人、手工業者、船頭なども参加、さらに天草の農民も加わって、大規模な一揆となりました。
 一揆勢は、最初は島原藩兵を追い返したり、11月14日の本渡の戦いでは、富岡城代の三宅重利を自刃させるなど優勢でしたが、九州諸藩の討伐軍が來ると原城跡に約3万7千人が立て籠もったのです。
 江戸幕府は12月に鎮圧のため板倉重昌を派遣し、近隣諸藩の兵を指揮させましたが、翌年元旦の総攻撃で重昌は戦死してしまいました。
 その後、老中松平信綱が着陣して指揮を取り、十数万の包囲軍による兵糧攻めや艦砲射撃なども行います。そして、一揆勢の食糧や弾薬が尽きた頃、幕府軍の総攻撃によって陥落し、1638年(寛永15年2月28日)に終結しましたが、一揆勢はほぼ全員が殺されました。
 しかし、幕府側も40万両余の戦費と数千の武士を失うという痛手で、原因を作った松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収するなどの処置を取ったのです。
 これ以後、キリスト教への弾圧は一層きびしくなり、鎖国を促すことにもなりました。

〇「原城跡」とは?
 長崎県南島原市にあり、島原の乱(1637-1638年)で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦ったところで、本丸跡には首領天草四郎時貞の像が立っています。
 城跡には、大手門跡、板倉重昌碑、本丸跡、ホネカミ地蔵、天草四郎像、天草四郎墓などが残され、現在は、国指定史跡となっています。
 今はほとんどが農耕地となっていて、しかも海の眺望が良く、のどかな田園地帯なのですが、ここで島原の乱があり、約3万7千人が死んだとは思えないくらいでした。

〇「天草四郎メモリアルホール」とは?
 熊本県上天草市の大久野島は、島原の乱(1637-1638年)の首謀者である天草四郎の出身地で、「天草四郎メモリアルホール」がありますが、丘の上の協会風の建物です。江戸時代前期の一大事件はこの地方の農民たちによって引き起こされたのです。
 幕府、大名による過酷な弾圧は、キリシタンたちを団結させ、一揆に立ち上がらせました。その時代に、神を最高のものとして、崇めることは異端でした。幕府側の徹底した反撃に、最後は島原半島の原城跡に約3万7千人が立て籠もっての長期の抵抗の末、全員虐殺されたのです。しかし、それによってキリシタン信仰を根絶やしにすることは出来ず。陰に隠れ、連綿として受け継がれていくことになります。あの江戸時代の長きにわたって、信仰を守り通したことは、驚異といっても良いと思います。
 館内の最後に、なんとも不思議な部屋「瞑想のホール」があって、音と光の中で、静かに回想できるのです。床には、奇妙なクッションが置いてあって、座りながらしばらくくつろいでみましたが、何とも言えない異空間を体験しました。外には、天草四郎之像とキリシタン墓があります。

〇「キリスト教の伝来と禁教令」とは?
 1549年(天文18)に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に来航して、キリスト教は伝来しました。その後、大内義隆や大内義鎮などの保護もあって、機内や九州北部を中心に広がります。
 各地に南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師学校)、セミナリオ(神学校)なども建てられ、高山右近などのキリシタン大名(洗礼を受けた大名)も登場して、天正遣欧使節も送られたりしました。
 しかし、豊臣秀吉により、1587年(天正15)にバテレン追放令が出されるなどして、次第にキリシタン弾圧が始まります。
 江戸時代になると、1612年(慶長17)に幕府直轄領に禁教令が出され、翌年には全国に及ぶようになります。この後は、宣教師や信者の処刑や海外追放などの激しい迫害が始まりました。
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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、神風連の乱(敬神党の乱)が起こった日です。
 これは、熊本県で起った士族の明治政府へ反乱(士族の反乱)の一つで、敬神党の乱ともいいます。
 敬神党は、新政府の開明政策に不満を抱く旧士族太田黒伴雄、加屋霽堅等が結成した政治団体で、復古的攘夷主義を掲げていました。
 この年の金禄公債条例による士族の経済的困窮や廃刀令の発布に端を発し、170余名が熊本鎮台、県令宅、県民会議議長宅などを襲い、鎮台司令官や県令を殺害したのですが、鎮台兵の反撃にあい、まもなく鎮圧されました。
 この乱によって、敬神党側の死者・自刃者は、計124名で、残りの約50名は捕縛され、一部は斬首されたのです。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名でした。

〇主要な士族の反乱
・佐賀の乱(1874年2月) 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて反乱を起こす
・神風連の乱(1876年10月) 熊本県で太田黒伴雄、加屋霽堅等が起こす
・秋月の乱(1876年10月) 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心として起こす
・萩の乱(1876年10月) 山口県で前原一誠らによって起きる
・西南戦争(1877年2月) 旧薩摩藩の士族中心に起き、西郷隆盛を大将に擁立、日本国内最大規模の内戦
・福岡の変(1877年3月) 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により起きた
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 今日は、江戸時代前期の1669年(寛文9)に、北海道日高アイヌの首長 シャクシャインの謀殺された日です。
 シャクシャインは、江戸時代前期の1606年(慶長11)に北海道日高地方で生まれたといわれています。
 蝦夷地では寛永年間から松前藩による商場知行制が推進されたため、アイヌ民族間での漁猟をめぐる対立が頻発しました。
 その中で、1648年(慶安元)に、シャクシャインがメナシクルのシベチャリの副首長(首長はカモクタイン)であったとき、漁猟場をめぐる争いからシュムクルのハエのアイヌを殺害、これをきっかけに東西アイヌの対立が深まりました。1653年(承応2)に、シュムクルの首長オニビシによってカモクタインが殺されたため首長となります。
 1655年(明暦元)に蝦夷地を治めていた松前藩の調停により、オニビシと講和しましたが、松前藩が1665年(寛文5)頃より交易価格を大幅につりあげたため、その後本格的な対立となりました。
 1668年(寛文8)には、シャクシャインらがオニビシを奇襲して殺害しましたが、その後、松前藩のアイヌに対する圧迫がさらに強まったため、民族間の対立を克服し、1669年(寛文9)6月に、東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起します。この時、商船の船頭や鷹匠など和人 273人(355人説もあり)を殺害したとされました。
 しかし、軍事力でまさる松前藩の反撃によりアイヌの勢力は劣勢となり、賠償とシャクシャインらの助命という条件で和議が設けられましたが、シャクシャインはその酒宴(寛文9年10月23日)において松前藩側に謀殺されたのです。
 この戦いは、シャクシャインの戦いと呼ばれ、本州との直接交易再開を目的とするアイヌ民族と対アイヌ民族交易体制確立をすすめる松前藩の戦いでもありました。
 現在、北海道日高郡新ひだか町には、「シャクシャイン記念館」があります。この地に、城跡(チャシ)があったことにより、建てられました。北海道の先住民たちの有形無形の文化財を保存し民族文化の交流や研修など幅広く利用できる施設として出来たもので、アイヌのコタン(集落)を再現したコーナーなど、北海道の先住民族の文化財を豊富に展示しています。また、ゆかりの地、真歌山にシャクシャインの像が建立されています。
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 今日は、1937年(昭和12)に、詩人中原中也の亡くなった日で、中原中也忌といわれています。
 中原中也は、昭和時代前期に活躍した詩人でした。1907年(明治40)4月29日に、山口県吉敷郡山口町(現在の山口市湯田温泉)の軍医柏村謙助とフク夫妻の長男として生まれます。
 8歳の時に養子縁組により、中原姓となりました。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれ、1920年(大正9)に、山口県立山口中学校(現在の山口県立山口高等学校)に入学します。
 しかし、読書に耽り、成績が芳しくなく、1923年(大正12)に、京都の立命館中学校3年に編入することになりました。
 1925年(大正14)には、中学を4年で修了して上京し、下宿生活を送りながら大学予備門で学ぶことになります。
 その後、詩を書きつつ紆余曲折を経て、1931年(昭和6)には、中大予科に籍を置いたまま、東京外国語学校専修科仏語部(現在の東京外国語大学)に入ることになりました。
 1933年(昭和8)に東京外語専修科を卒業後、小遣い稼ぎをしながら詩を書き続け、 同年12月、『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳を三笠書房より刊行します。さらに、翌年12月に、代表作となる『山羊の歌』を文圃堂より刊行(限定200部)しました。
 しかし、1937年(昭和12)10月22日に、結核のために30歳の若さで亡くなりました。 
 尚、死後の翌年4月に、『在りし日の歌』が、創元社より刊行されています。
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