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 今日は、鎌倉時代の1279年(弘安2)に、『十六夜日記』の著者阿仏尼が、遺産相続をめぐって幕府に上訴するため鎌倉に向けて京を出立した日ですが、新暦では11月21日となります。(1277年との説もあります)
 その出立が、10月16日(陰暦)だったところから、「いさよひの日記」と呼ばれるようになり、この書名になったとのことです。

〇『十六夜日記』とは?
 鎌倉時代に、藤原為家の側室である阿仏尼(あぶつに)によって記された紀行文・日記で、『東関紀行』、『海道記』と共に、中世三大紀行文の一つと言われています。
 旅行記、鎌倉滞在記、鶴岡八幡宮奉納長歌の3部から成っていて、1282年(弘安5)ころ成立したと考えられています。
 為家の没後、実子為相(ためすけ)と為家の嫡子為氏との間に播磨国細川荘をめぐる遺産相続争いが起きました。その訴訟のため、1279年(弘安2)に、阿仏尼が京から鎌倉へ旅立つことになったのです。その出立が、10月16日(陰暦)だったところから、「いさよひの日記」と呼ばれるようになったとのことです。
 特に、紀行文の部分は、実際の旅に基づいて書かれており、中世の旅の様子や街道風景を知る上でとても興味深いもので、足跡をたどることも可能です。
 また、当時の訴訟の様子を伝える資料としても貴重なものです。

〇阿仏尼(あぶつに)とは?
 鎌倉時代中期の女流歌人で、平度繁(たいらののりしげ)の養女でしたが、安嘉門院(後高倉院皇女)に仕え、安嘉門院四条とも言われていました。
 しかし、若くして失恋の痛手から一時出家したのです。その後、世俗との関わりを断ち切れず、30歳頃に藤原為家の側室となり、京都の嵯峨に住んで、冷泉為相・為守らを産むことになります。
 1275年(建治元)の為家没後、出家して北林禅尼と称します。それから、播磨国細川荘の遺産相続をめぐって為家の嫡子為氏と争うことになり、1279年(弘安2年10月16日)に、幕府に上訴するため鎌倉に下りました。
 鎌倉では、極楽寺の近くの月影の谷に住んでいましたが、1283年(弘安6)頃、60余才で亡くなったとされています。
 訴訟の方は、没後6年目の1289年(正応2)に採決が下り、阿仏尼側の勝利でした。
 阿仏尼には、文学的な才あり、代表作の『十六夜日記』以外に、『夜の鶴』、『仮名諷誦』、『うたたねの記』、『安嘉門院四条百条』等の著作があります。また、歌人としてもすぐれ、いろいろな歌合に出詠し、『続古今集』以下の勅撰集に48首入集しています。

<代表的な歌>
「山川を 苗代水に まかすれば 田の面にうきて 花ぞながるる 」(風雅和歌集)
「色々に ほむけの風を 吹きかへて はるかにつづく 秋の小山田」(玉葉和歌集)