ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年09月

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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、「日満議定書」の調印された日です。
 これは、新京(長春)で日本側全権は武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)、満洲国側は鄭孝胥国務総理との間で調印された、日本と「満州国」の協定でした。
 この協定は、前文と2ケ条からなり、前文では、「満州国」が独立国であることを確認し、本文では、(1)「満州国」は日本が従来から有するいっさいの権利利益を確認尊重すること、(2)「満州国」における日本軍の駐屯が明記され、また、付属する秘密の往復文書(交換公文)において、「満州国」が、国防・治安維持や、鉄道・港湾・水路・航空路などの敷設・管理を日本に委託すること、満州国国防の関東軍・日本軍への委任が取り決められたのです。
 これらのことは、満州事変後、1932年(昭和7)3月に日本の傀儡政権である「満州国」を樹立したことについて、国際連盟のリットン報告書に先立って、満州の既成事実を確保するためのものとされました。

〇「日満議定書」(全文)

日満議定書

(九月十五日發表)

議定書

(日本文)

日本國ハ滿洲國カ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ

滿洲國ハ中華民國ノ有スル國際約定ハ滿洲國ニ適用シ得へキ限リ之ヲ尊重スヘキコトヲ宣言セルニ因リ

日本國政府及滿洲國政府ハ日滿兩國間ノ善隣ノ關係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土權ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センカ爲左ノ如ク協定セリ

一、滿洲國ハ將來日滿兩國間ニ別段ノ約定ヲ締結セサル限リ滿洲國領域内ニ於テ日本國又ハ日本國臣民カ從來ノ日支間ノ條約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ權利利益ヲ確認尊重スヘシ

二、日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衛ニ當ルヘキコトヲ約ス之カ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス

本議定書ハ署名ノ日ヨリ效力ヲ生スヘシ

本議定書ハ日本文及漢文ヲ以テ各二通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ據ルモノトス

右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ

昭和七年九月十五日即チ大同元年九月十五日新京ニ於テ之ヲ作成ス

日本帝國特命全權大使

武藤信義(印)

滿洲國國務總理

鄭孝胥(印)


往復文書(来翰略)

以書翰啓上致候陳者本日附貴翰ヲ以テ今般日本国政府ニ於テハ満洲国カ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認セラレ且両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保スル為必要ナル協定ヲ締結スルコトニ御同意相成候処右以前ニ於テ既ニ日本国関東軍司令官ト満洲国執政又ハ国務総理トノ間ニ交換又ハ締結セラレタル左記文書及取極ハ何レモ前記ノ趣旨ニ合致スルモノナルニ付満洲国政府ハ此ノ際之ヲ確認シ引続キ効力ヲ有セシムルコトト致シタル旨御照会ノ趣了解致候
右回答得貴意候 敬具
  昭和七年九月十五日

日本帝国特命全権大使 武藤信義

満洲国国務総理 鄭孝胥殿



一 大同元年三月十日満洲国執政ヨリ本庄関東軍司令官宛書翰及昭和七年五月十二日同司令官ヨリ執政宛回答文
二 大同元年八月七日鄭国務総理ト本庄関東軍司令官トノ間ノ満洲国政府ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理並ニ線路ノ敷設管理ニ関スル協約及右協約ニ基ク附属協定
三 大同元年八月七日鄭国務総理ト本庄関東軍司令官トノ間ノ航空会社ノ設立ニ関スル協定
四 大同元年九月九日鄭国務総理ト武藤関東軍司令官トノ間ノ国防上必要ナル鉱業権ノ設定ニ関スル協定


大同元年三月十日満洲国執政ヨリ本庄関東軍司令官宛書翰及昭和七年五月十二日同司令官ヨリ執政宛回答文

書簡ヲ以テ啓上候此次満洲事変以来貴国ニ於カレテハ満蒙全境ノ治安ヲ維持スル為ニ力ヲ竭サレ為ニ貴国ノ軍隊及人民ニ均シク重大ナル損害ヲ来シタルコトニ対シ本執政ハ深ク感謝ノ意ヲ懐クト共ニ今後弊国ノ安全発展ハ必ス貴国ノ援助指導ニ頼ルヘキヲ確認シ茲ニ左ノ各項ヲ開陳シ貴国ノ允可ヲ求メ候

一、弊国ハ今後ノ国防及治安維持ヲ貴国ニ委託シ其ノ所要経費ハ総テ満洲国ニ於テ之ヲ負担ス

二、弊国ハ貴国軍隊カ国防上必要トスル限リ既設ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理並新路ノ敷設ハ総テ之ヲ貴国又ハ貴国指定ノ機関ニ委託スヘキコトヲ承認ス

三、弊国ハ貴国軍隊カ必要ト認ムル各種ノ施設ニ関シ極力之ヲ援助ス

四、貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任シ其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スヘク其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依リ其ノ解職ハ同司令官ノ同意ヲ要件トス
 前項ノ規定ニ依リ任命セラルル日本人参議ノ員数及ヒ参議ノ総員数ヲ変更スルニ当リ貴国ノ建議アルニ於テハ両国協議ノ上之レヲ増減スヘキモノトス

五、右各項ノ趣旨及規定ハ将来両国間ニ正式ニ締結スヘキ条約ノ基礎タルヘキモノトス

以上

大日本帝国関東軍司令官 本庄繁殿
  大同元年三月十日

溥 儀

三月十日附貴翰正ニ受理ス
当方ニ於テ異存無之ニ付右回答ス
  昭和七年五月十二日

関東軍司令官 本庄繁

執政 溥儀殿

                  外務省編「日本外交年表竝主要文書」下巻より
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 今日は、1590年(天正18)に、安土桃山時代を代表する絵師 狩野永徳の亡くなった日ですが、新暦では10月12日となります。
 狩野永徳は、狩野宗家五世で、幼名は源四郎、後に州信と名乗りました。1543年(天文12年1月13日)に、絵師狩野松栄の長男として、京都で生まれ、幼い時から将来を期待され、祖父狩野元信の指導を受けたと考えられています。
 1566年(永禄9)弱冠24歳にして、父松栄とともに大徳寺聚光院の障壁画を制作しました。30~40歳代には、織田信長の安土城(1576年)、豊臣秀吉の大坂城(1585年)と聚楽第(1587年)、正親町院御所(1586年)、大徳寺山内の天瑞寺(1588年)、京都御所(1990年)などの障壁画を次々と手がけ、高い評価を得ます。しかし、1590年(天正18年9月14日)に、48歳で亡くなりました。

〇狩野永徳の現存する主要な作品一覧

・聚光院障壁画(国宝) - 京都市・聚光院
・洛中洛外図(国宝) - 上杉博物館
・唐獅子図屏風 - 宮内庁三の丸尚蔵館
・南禅寺大方丈障壁画(重要文化財) - 京都市・南禅寺
・檜図屏風(国宝) - 東京国立博物館
・許由巣父図(重要文化財) - 東京国立博物館
・仙人高士図屏風(重要文化財) - 京都国立博物館
・花鳥図押絵貼屏風 六曲一双 - 個人蔵
・梔子に小禽図(墨画) - 京都国立博物館
・老莱子図 - 山口・菊屋家住宅保存会
・二十四孝図屏風 六曲一双 - 福岡市博物館
・四季山水図 六曲一双 - 香雪美術館
・渡唐天神図 - 瀬戸市・定光寺
・柿本人麻呂図 - 群馬県立近代美術館
・織田信長像 - 大徳寺
・松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風 六曲一双 紙本墨画 - 九州国立博物館蔵
・瀟湘八景図 一幅 紙本墨画 - 個人蔵
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、日本を代表する版画家 棟方志功が亡くなった日です。
 棟方志功は、明治時代後期の1903年(明治36)9月5日に、青森県青森市の刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれました。
 小学校卒業後、家業の鍛冶職手伝いから青森地方裁判所の給仕となり、ゴッホの絵に感銘し、油絵を描くようになります。1924年(大正13)に画家を志して上京し、帝展や白日会展などに油絵を出品するものの落選が続きます。
 1928年(昭和3)に平塚運一に木版を学び、第9回帝展に油絵を出品し、初めて入選しました。その後は、木版画の制作に没入し、1930年(昭和5)から文化学院で美術教師を務め、1932年(昭和7)には、日本版画協会会員となりました。
 1936年(昭和11)に柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らと知合い民芸運動に参加、また翌年には、国画会同人ともなります。
 1945年(昭和20)には、戦時空襲を避けるため富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)に疎開しました。
 太平洋戦争後は、1955年(昭和30)サン・パウロ・ビエンナーレ展で受賞し、翌年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受けるなど、世界的な評価を確立します。
 1964年(昭和39)に朝日文化賞を受賞、1969年(昭和44)に出生地の青森市から初代名誉市民賞を授与され、翌年には毎日芸術大賞と文化勲章を受章しました。しかし、1975年(昭和50)9月13日に、東京にて72歳で亡くなったのです。
 尚、1975年(昭和50)に郷里青森市に「棟方志功記念館」が設立されました。

〇棟方志功の主要な作品一覧

<版画>
・『大和し美し』(1936年)
・『十大弟子板画柵』 (1939年)
・『天地乾坤韻』 (1952年)
・『湧然する女者達々』 (1953年)
・『柳緑花紅板画柵』 (1955年)

<著書>
・『ワだばゴッホになる』(1975年)日本経済新聞社
・『棟方志功 ワだばゴッホになる』(1997年)日本図書センター〈人間の記録〉
・『板極道』(1972年)中央公論社
・『棟方志功全集』全12巻(1977-1979年)講談社
・『板画奥の細道』(1979年)講談社文庫
・『板散華』(1942年)山口書店
・『棟方志功 ヨロコビノウタ』(2003年)棟方板画美術館編、二玄社、
・『河井寛次郎 棟方志功』(2004年)河井寛次郎共著、新学社〈近代浪漫派文庫〉
・『棟方志功作品集 富山福光疎開時代』(2004年)東方出版
・『棟方志功の絵手紙』(2006年)小池邦夫・石井頼子共編、二玄社
・『孤高の画人 私の履歴書・画家2』(2007年)熊谷守一・中川一政・東郷青児共著、日経ビジネス人文庫
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 今日は、1571年(元亀2)に、織田信長による「比叡山の焼き討ち」が起きた日ですが、新暦では9月30日となります。
 「比叡山の焼き討ち」は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に、比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)で行われた戦いで、織田信長軍と比叡山延暦寺が争いました。当時の延暦寺は、僧兵4千人という強大な武力と権力を持ち、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となったのです。織田信長による何度かの武装解除の申し出に、比叡山延暦寺側が従わなかったため、攻撃されることになりました。
 この時に、全山が焼亡し、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰し、僧侶、学僧、上人、児童の多くの首が刎ねたられたと言われています。

〇「延暦寺」とは?
 滋賀県大津市にある天台宗の総本山で、山号は比叡山といい、山門とも呼びます。
 奈良時代の788年(延暦7)に最澄が創建した一乗止観院に始まり、823年(弘仁14)には、嵯峨天皇による大乗戒壇の勅許とともに延暦寺の寺号を賜りました。
 993年(正暦4)に円珍(智証大師)の門徒が園城寺(寺門)に移ってからは寺門と対立し、このころから僧兵をたくわえ、意に満たないことがあれば強訴し、朝廷に恐れられるようになります。
 次第に堂や伽藍が整備されていき、平安時代後期には一山三千余坊といわれるほど栄えました。鎌倉時代以降も寺勢を保持しましたが、たびだひ武家勢力と対峙したため、何度か火災にあって建物を焼失したものの、その都度復興されてきました。
 しかし、1571年(元亀2)に、浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となって、織田信長によって「比叡山の焼き討ち」が起こり、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰したと言われています。
 その後、豊臣秀吉から山門再興の許可を得、秀吉、徳川家康より領地を与えられて復興しました。
 現在も、根本中堂 (国宝) をはじめ,大講堂、戒壇院、釈迦堂、山麓の滋賀院などの百有余の堂や塔があり、寺宝として、金銅経箱(国宝)、宝相華蒔絵経箱(国宝)、七条刺納袈裟・刺納衣(国宝)、伝教大師将来目録(国宝)、羯磨金剛目録(国宝)、六祖恵能伝(国宝)などを多数所蔵しています。尚、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

☆『信長公記』の「比叡山の焼き討ち」の記述より

九月十一日、信長公、山岡玉林所に御陣を懸けらる。
九月十二日、叡山へ御取り懸く。子細は、去年、野田・福島御取り詰め侯て、既に落城に及ぶの刻、越前の朝倉・浅井備前、坂本ロヘ相働き侯。京都へ乱入侯ては、其の曲あるべからざるの由侯て、野田・福島御引払ひなされ、則ち逢坂を越え、越前衆に懸け向ふ。つぼ笠山へ追ひ上げ、干殺なさるべき御存分、山門の衆徒召し出だされ、今度、信長公へ対して御忠節仕るに付きては、御分国申にこれある山門領、元の如く還附せらるべきの旨御金打なされ、其の上、御朱印をなし遣はされ、併せて、出家の道理にて、一途の最員なりがたきに於いては、見除仕り侯へと、事を分ちて仰せ聞かさる。若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、三王廿一杜を初めとして、悉く焼き払はるべき趣、御諚侯へき。時刻到来の砌歟。山門・山下の僧衆、王城の鎮守なりと雖も、行躰行法、出家の作法にも拘らず、天下の嘲哢をも恥ず、天道の恐をも顧みず、婬乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄に耽りて、浅井・朝倉に贔負せしめ、恣に相働くの条、世に随ひ、時習に随ひ、まず、御遠慮を加へられ、御無事に属せられ、御無念ながら、御馬を納められ侯へき。御憤を散ぜらるべき為めに侯。
九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一杜を初め奉り、霊仏・霊杜・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰嬬の地となすこそ哀れたれ。山下の男女老若、右往左往に癈忘致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王寺山へ逃げ上り、杜内へ逃げ籠る。諸卒四方より鬨音を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人、一々に頸をきり、信長の御目に懸くる。是れは山頭に於いて、其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、其の外、美女・小童、其の員をも知らず召し捕へ召し列らぬる。御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ぱず、是れは御扶けなされ侯へと、声々に申し上げ侯と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり。年来の御胸朦を散ぜられ訖んぬ。さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地侯ひしなり。
九月廿日、信長公濃州岐阜に至りて御帰陣。

【注釈】
 [1]叡山:えいざん=比叡山延暦寺のことで、1571年(元亀2)の攻撃は、比叡山の焼き討ちと呼ばれています。
 [2]根本中堂:こんぽんちゅうどう=比叡山延暦寺の中心的な堂宇(総本堂)。
 [3]山王廿一社:さんのうにじゅういっしゃ=山王神社(日吉神社)の本宮・摂社・末社の合計21社のこと。
 [4]山門山下の僧衆:比叡山延暦寺の僧侶で比叡山上と山麓に住んでいる者のこと。
 [5]行躰:ぎょうたい=なりふり。すがた。
 [6]行法:ぎょうほう=仏道修行の方法。
 [7]嘲哢:ちょうろう=ばかにする。あざける。
 [8]贔屓:ひいき=目をかける。味方する。
 [9]一宇も残さず:いちうものこさず=一つの建物も残さない。
 [10]癈忘致し:はいもういたし=うろたえること。狼狽すること。
 [11]かちはだし:徒歩ではきものもはかないこと。
 [12]八王子山:山王神社(日吉神社)の北方で奥宮のあるところ。
 [13]智者:ちしゃ=賢い僧
 [14]上人:しょうにん=地徳の優れた僧
 [15]有智の僧者:うちのそう=知恵ある僧
 [16]是非に及ばず:ぜひにおよばず=よしあしもなく。当然。
 [17]仕合せ:次第。てんまつ。
 [18]胸朦:胸中のしこり。

<現代語訳>

 9月12日、叡山へ攻めかかられた。子細は、去年、野田・福島を攻囲して、もはや落城という時に、越前の朝倉(義景)・浅井備前守(長政)が、坂本口へ攻めてきた。「京都へ乱入されては、困った事態となる」と考えられ、野田・福島から退陣し、すぐに逢坂を越え、越前衆に立ち向かわれた。これを局笠山に追い上げて兵糧攻めしにしようと考えられ、山門の衆徒を召し出し、この度信長公に対して忠節を尽くすならば、「私の領国内にある山門領を元のようにお返しするべし」旨を金打までされ、さらに朱印状をもお渡しになった。併せて、「出家の身で一方へ肩入れが難しい場合にはせめて中立を保って見過ごしてほしい」と、事をわけて説得した。「もしこの両条に背いた場合には、根本中堂・山王二十一社ことごとく焼き払う」旨を宣告していた。その時が到来したのであろうか。比叡山延暦寺の僧侶で比叡山上と山麓に住んでいる者は、王城鎮守でありながら、日常の姿も、仏道修行の作法も省みず、天下のあざけりをも恥じず、天道を恐れも顧みず、淫乱と肉食をほしいままにし、金銀に目をくらませて、浅井・朝倉に加担し、勝手なふるまいさえした。信長公は世に従い、時勢を考えて、まず容赦をくわえて見逃し、残念ながらも兵を引いたのであった。その時の憤慨を晴らされる時が来たのである。

 9月12日、叡山を攻囲し、根本中堂・山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・僧房・経巻を一つもも残さず、いっぺんに雲霞のごとく焼き払わせ、灰燼の地と化してしまったことは哀れであった。山下では老若男女が右往左往と狼狽して、取るものもとりあえず、すべてが徒歩のはだしで、八王寺山に逃げ上り、社内に逃げ籠った。いろいろな兵が、四方より鬨の声をあげながら攻め上がった。僧俗・児童・智者・上人のことごとくの首をはね、信長公の御前に差し出した。これは叡山において呼び声の高い高僧・貴僧・学僧などと報告し、その他にも美女・小童らを数知れぬほど捕らえられ、引き出されてきた。御前へ来て、「悪僧は当然ですが、われらはお助け下さい」と口々に申し上げたものの、なかなか聞き入れず、一人ひとり首を打ち落とされ、目も当てられないありさまであった。数千の屍が散らばり、哀れな顛末となった。これで信長公は、年来の胸中のしこりを取り除かれるこことなった。その後、志賀郡は明智光秀に与えられ、坂本に城が構えられた。

 9月20日、信長公は美濃の岐阜に至って帰陣した。

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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、日本初の街頭用公衆電話が、東京の新橋駅(中等待合室前)と上野駅(駅長室前)に1台ずつ設置された日で、「公衆電話の日」とも呼ばれています。また、翌10月には最初の公衆電話ボックスが京橋のたもとに建てられました。しかし、当時の方式は、交換手を呼びだしてからお金を入れて相手に繋いでもらうもので、「自動電話」と呼ばれていたのです。
 1925年(大正14)10月1日には、交換手が要らないダイヤル自動方式が採用され名称に混乱を来たすとして「自働電話」が「公衆電話」と改称されました。

〇「公衆電話」とは?
 不特定多数の人々が利用することを目的とし、街頭、店頭等の公衆が利用しやすい場所に設置された電話のことです。 以前は、(1) 街頭公衆電話(駅前や繁華街など街頭にあり,ボックス式やポール式のもので、青電話ともいわれ、後に黄電話も登場した)、 (2) 店頭公衆電話(NTTが設置場所を選定し,取扱者を委託するもので、赤電話ともいわれた)、 (3) 局内公衆電話(郵便局,電報局などの局内にあるもの)、 (4) 特殊簡易公衆電話(加入電話を NTTと契約して,一般にも利用させるものでピンク電話ともいわれた)この他、列車公衆電話、航空機公衆電話などがありました。
 しかし、1990年(平成2)からアナログ回線にかわり、ISDN回線を使用したデジタル公衆電話も登場し、1995年(平成7)には、ピンク電話をのぞくすべての公衆電話が磁気カード式公衆電話(緑電話)にかわり、青電話、赤電話、黄電話は姿を消したのです。
 尚、1984年(昭和59)度末には、934,903台あった公衆電話も、家庭電話や携帯電話の普及等により、2015年(平成27)度末には、171,179台にまで激減しています。

☆「公衆電話」の歴史年表

・1890年(明治23)12月16日 電話業務開始にともない初めて電話局内に「電話所」が設置される
・1900年(明治33)9月11日 東京の新橋駅と上野駅に、街頭で初めて設置され「自働電話」と呼ばれた
         10月 最初の公衆電話ボックスが京橋(現在の東京都中央区)のたもとに建てられる
・1903年(明治36) 共電式公衆電話機の設置を開始する
・1925年(大正14)10月1日 交換手不要のダイヤル自動方式採用で、「自働電話」が「公衆電話」と改称される
・1951年(昭和26)12月 委託公衆電話が登場する
・1953年(昭和28)1月 ボタン付き硬貨後納式の「青電話」の設置が開始される
         8月 「赤電話」(店頭公衆電話)が登場する
・1955年(昭和30) 10円硬貨前納式の「青電話」の設置が開始される
・1957年(昭和32) 近畿日本鉄道の特急2250系に日本初の列車公衆電話が設置される
・1959年(昭和34) 「ピンク電話」(特殊簡易公衆電話)が登場する
・1965年(昭和40) 東海道新幹線で列車公衆電話サービスが開始される
・1968年(昭和43) ダイヤル市外通話可能な10円硬貨前納式の大型青電話の設置が開始される
・1972年(昭和47)12月 100円硬貨にも対応した「黄電話」の設置が開始される
・1975年(昭和50) プッシュ式黄電話の設置が開始される
・1982年(昭和57)12月 磁気カード式公衆電話(磁気テレホンカード使用可)の設置が開始される
・1986年(昭和61) 航空機公衆電話サービスが開始される
・1993年(平成5) 公衆電話の通話料金が大幅に値上げされる
・1995年(平成7)3月 公衆電話のカード化が完了し、青電話、赤電話、黄電話が姿を消す 
・1999年(平成11)3月 ICカード対応公衆電話の設置が開始される
・2002年(平成14)11月 新規機種の開発の停止
・2005年(平成17) ICカード対応公衆電話廃止で、磁気テレホンカード式公衆電話の新機種DMC-8Aが出される
・2006年(平成18)3月31日 ICカード対応公衆電話のすべてのサービス終了する
・2007年(平成19) NTTが老朽化している公衆電話約2000台を新型公衆電話DMC-8Aに交換することを決める
・2012年(平成24)6月29日 NTT東西が公式サイトにて全国の公衆電話の設置場所を公開する
・2016年(平成28年) DMC-8A公衆電話後継機種MC-D8のサービスが開始される
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