ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年09月

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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、京都府京都市の堀川中立売~七条~祇園で、日本初の乗合バスが運行された日で、「バスの日」とされています。
 この日、京都府京都市の二井商会(福井九兵衛と坪井清兵衛によって創業)が、蒸気自動車を改造した幌なしの6人乗り車両(運転手、助手、乗客4名)によって、はじめての乗合バスの運行を開始しました。同年11月21日には、京都府自動車取締規則により正式な許可業とされています。しかし、翌年1月には、経営破綻によって営業を終えました。
 また、1905年(明治38)2月5日に広島県の横川町~可部町間(約15km)でも、12人乗りの乗合バスが運行開始されましたが、こちらもバスそのものの不備、乗合馬車屋からの反対等により、同年9月に事業を終了しています。
 明治時代には、ライバルの乗合馬車屋からの妨害や車両の故障が相次ぎ、本格的な営業の継続が難しかったと言われていました。
 大正時代に入ると、車両の信頼性も高まり、全国的にバス事業を取り扱う事業者が増えていきます。特に東京市では、1923年(大正12)9月1日に起こった関東大震災の影響で路面電車が大きな被害を受け、この代替輸送として、乗合バスが活用されて、普及していきました。
 現在日本での乗合バスは、原則として「道路運送法」に基づく一般乗合旅客自動車運送事業の免許を必要とし、運賃改定にあたっては運輸大臣 (陸運局長) の認可を必要としています。また、同法第3条により一般自動車運送事業に分類され、その中の一般乗合旅客自動車運送事業(乗合旅客を運送する一般旅客自動車運送事業)とされています。
 尚、1987年(昭和62)に、日本バス協会がこの日を「バスの日」と定めました。そして、2009年(平成21)からは、それを記念して、日本バス協会が毎年9月ごろに「バスフェスタ」を開催し始めたのです。また、この日の前後に全国のバス事業者によって、さまざまな催し(試乗会、一日乗車券の販売など)が行われるようになりました。
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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、「埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘を解読した」と『毎日新聞』夕刊で報道され、埼玉県教育委員会から正式発表された日です。
 稲荷山古墳は、埼玉県行田市の埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳で、その時期は5世紀後半とされています。墳丘は、全長120m、高さ12mほどで、県内で3番目の規模を誇る前方後円墳です。
 1968年(昭和43)に、稲荷山古墳の後円部を発掘したところ、頂上から2基の埋葬施設が発見され、そこから鉄剣、神獣鏡、硬玉勾玉、金銅帯金具、工具類、武器類等の副葬品が出土しました。
 その鉄剣は、1978年(昭和53)に、腐食の保護処理のため奈良県にある元興寺文化財研究所に委託され、X線による検査が行われました。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明し、解読の結果が同年9月19日に、埼玉県教育委員会より正式発表されたのです。
 その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年(昭和56)に重要文化財に指定され、2年後の1983年(昭和58)には、国宝に指定されました。

〇埼玉古墳群とは?
 埼玉県行田市にあり、1938年(昭和13)に国指定史跡となりました。1967年(昭和42)から風土記の丘第2号として整備が進められ、その古墳群を中心として公園(面積37.4ha)となり、日本最大の円墳である丸墓山古墳、関東有数の前方後円墳である二子山古墳、稲荷山古墳などを含め9基の古墳が広い敷地の中に点在しています。
 しかし、なんといっても、メインは、園内の「県立さきたま史跡の博物館」に実物展示されている国宝の“金錯銘鉄剣”です。稲荷山古墳から出土した、5世紀のものといわれる鉄剣に、115文字の金像眼が発見され、当時関東まで大和朝廷の勢力が及んでいたと大きな話題となり、同時に出土した他の副葬品と共に1983年(平成5)には国宝に指定されました。
 その発見によって、日本の古代史が塗り替えられたとのことで、100年に一度の大発見と言われています。その他にも、石室内部が復元公開されている将軍山古墳へも行ってみたいものです。

☆稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣銘文

(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

<訳文>
(表)
辛亥の年七月中、記す。乎獲居臣。上祖、名は意富比垝。其の児、多加利足尼。其の児、名は弖已加利獲居。其の児、名は多加披次獲居。其の児、名は多沙鬼獲居。其の児、名は半弖比。
(裏)
其の児、名は加差披余。其の児、名は乎獲居臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼宮に在る時、吾、天下を左治し、この百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
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 今日は、1868年(明治元)に日本画家横山大観の生まれた日(8月19日との異説あり)ですが、新暦では11月2日となります。
 横山大観は、明治時代後期から昭和時代中期まで活躍した日本画家で、本名は秀麿といいます。1868年(明治元年9月18日)に、常陸国水戸(現在の茨城県水戸市)で、水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれました。
 1878年(明治11)には、一家で上京し、東京府立中学校(現在の都立日比谷高校)を経て、私立東京英語学校(現在の日本学園高校)へ入学します。1888年(明治21)には、母方の横山家を継ぎ、横山姓となりました。
 1889年(明治22)に開校した東京美術学校(現在の東京芸術大学)に第一期生として入学し、橋本雅邦や岡倉天心に学びましたが、同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいたのです。
 1893年(明治26)に同校を卒業後、京都美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)で教鞭をとったのち、1896年(明治29)に母校の助教授になりました。1897年(明治30)に日本絵画協会第2回展に出品の『無我』 で銅牌を受賞しましたが、岡倉天心校長を排斥する騒動が起こると、翌年に岡倉天心、橋下雅邦らと共に辞職し、日本美術院創立に加わります。
 1904年(明治37)から翌年まで欧米を旅行し、帰国後は岡倉天心らと茨城県五浦海岸(現在の北茨城市)に転居して制作に励みました。
 1907年(明治40)の文部省美術展覧会 (文展) 開設後は審査員として活躍し、『流灯』 (1909年)、『瀟湘八景』 (1912年) なども発表します。 1914年(大正3)には日本美術院の再興に尽くし、その中心作家として活躍しました。
 1931年(昭和6)帝室技芸員、1934年(昭和9)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10)帝国美術院会員、1937年(昭和12)には第1回の文化勲章を受章します。長期にわたり画壇の第一人者であり、社会的にも大きな影響力を持ちましたが、1958年(昭和33)2月26日に、89歳で亡くなりました。

〇横山大観の代表作

・『無我』1897年 東京国立博物館蔵
・『屈原』1898年 厳島神社蔵
・『流燈』1909年 茨城県近代美術館蔵
・『蕭湘八景』1912年 東京国立博物館蔵(国指定重要文化財)
・『游刃有余地』 1914年 東京国立博物館蔵
・『生々流転』1923年 東京国立近代美術館蔵(国指定重要文化財)
・『夜桜』1929年 大倉集古館蔵
・『山桜』1934年 山種美術館蔵
・『大楠公』1938年 湊川神社蔵
・『或る日の太平洋』1952年 東京国立近代美術館蔵
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 今日は、1867年(慶応3)に、俳人・歌人 正岡子規の生まれた日ですが、新暦では10月14日となります。
 正岡子規は、明治時代に活躍した俳人・歌人で、本名を常規といい、俳句の革新運動を展開しました。1867年(慶応3)に、伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市)の松山藩下級武士の家の長男として生まれ、幼名は処之助と言いました。
 旧制松山中学(現在の松山東高)を中退後、1883年(明治16)に上京し、俳句を作るようになります。大学予備門を経て1890年(明治23)、帝国大学文科大学哲学科(現在の東京大学文学部)に入学し、後に、国文科に転科しました。
 しかし、1892年(明治25)に大学中退を決意し、家族を東京に呼び寄せ、日本新聞社に入社して、俳句の革新運動を展開することになります。
 1895年(明治28)に日清戦争に従軍記者として赴きましたが、喀血し、結核を悪化させて帰国しました。各地で療養後は、東京の子規庵て病床生活を送ることになりましたが、病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進したのです。
 その間、俳誌「ホトトギス」の刊行を支援し、「歌よみに与ふる書」で和歌改革を主張し、写生文も提唱しました。
 また、門下として高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節、河東碧梧桐などを育てましたが、1902年(明治35)9月19日に36歳の若さで亡くなったのです。病床で書いた随筆『病牀六尺』や日記『仰臥漫録』が知られています。
 尚、1981年(昭和56)に故郷の愛媛県松山市に「松山市立子規記念博物館」が開館しました。

<代表的な句>
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」、「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」、「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
<代表的な歌>
「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる」
「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり」

〇「歌よみに与ふる書」とは?

 正岡子規の歌論書で、明治時代後期の1898年(明治31)に、新聞『日本』に10回にわたって連載されました。この書では、「万葉集」、「金槐和歌集」に高い評価を与えて、万葉調への回帰と写生による短歌を提唱し、和歌革新運動の推進力となったのです。
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 今日は、江戸時代後期の1793年(寛政5)に、武士・画家 渡辺崋山の生まれた日ですが、新暦では10月20日となります。
 渡辺崋山は、江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれました。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となりしました。家老として藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。
 天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、「慎機論」を著して、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。
 画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇「蛮社の獄」とは?

 江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) の判決が下されたのです。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていました。
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