ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年09月

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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、奈良県生駒郡斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表された日で、「藤ノ木古墳記念日」とも呼ばれていました。
 藤ノ木古墳は、大型円墳(直径約50m、高さ約8m)で、古墳時代後期の6世紀後半に造られたと考えられています。
 1985年(昭和60)の第1次調査によって、盗掘を免れてきた横穴式石室内から、60個体余の土師器・須恵器と金銅製の豪華な馬具などが出土したことで注目されました。
 1987年(昭和62)に橿原考古学研究所が第2次調査を行ない、国内の発掘調査史上初めてファイバースコープによる石棺内の確認調査がされます。
 そして、1988年(昭和63)の第3次調査において開棺調査され、金銅製の冠、沓、筒型製品、帯、6振の大刀、5面の鏡、金の耳飾りなどで装飾された成人男性2体の骨が発見されました。これらの調度品の高度な技術と華麗な意匠は、古墳時代後期の工芸技術の粋を集めたものとして高く評価されたのです。
 1988年(昭和63)に石棺外出土品が国の重要文化財に指定され、1991年(平成3)に石棺内出土品が追加指定を受け、古墳自体も国の史跡に指定されました。さらに、2004年(平成16)に副葬品が一括して国宝に指定されたのです。
 また、古墳から南へ200mのところにガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されていますし、「奈良県立橿原考古学研究所」(奈良県橿原市)では出土品が常設展示されるようになりました。

〇藤ノ木古墳出土品(国宝指定)

<石棺外出土>
・金銅鞍金具 1背
・鉄地金銅張鞍金具 残欠共 2背分
・金属製品 一括(馬具類、挂甲小札、刀身、鉄鏃、鉄製模造品など)
・土師器・須恵器(蓋3箇共)46箇(須恵器37箇(蓋3箇共)、土師器9箇)

<石棺内出土>
・銅鏡 4面(獣帯鏡1、画文帯神獣鏡2、神獣鏡1)
・金属製品 一括(金銅冠、金銅履、金銅製・銀製装飾品類、刀剣類など)
・ガラス製品 一括(ガラス玉類)
・附 繊維類 一括
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 今日は、昭和時代後期の1966年(昭和41)に、熊本県の天草五橋(パールライン)が開通した日です。
 天草五橋(あまくさごきょう)は、熊本県宇土半島先端の三角から、天草諸島の大矢野島、永浦島、池島、前島を経て天草上島までを結ぶ5つの橋(天門橋、大矢野橋、中の橋、前島橋、松島橋)のことで、日本道路公団によって建設されました。
 国道266号の一部をなし、現在の宇城市から上天草市にかけての約12kmの連絡道路となっていますが、開通当初は有料道路で、30年で償還する予定だったものの、わずか9年で通行無料になります。
 1935年(昭和10)に、天草架橋構想が熊本県議会に提案されて以降、27年にして、1962年(昭和37)に、日本道路公団によって起工されました。各橋はそれぞれ周囲の自然環境と技術上の条件を考慮して選ばれた構造形式を採用し、当時の日本橋梁技術の粋を集めたものです。そして、3年の工期を経て完成し、熊本県民の悲願がかなうことになりました。
 周辺は、雲仙天草国立公園の指定を受ける風光明媚なところで、この完成によって、長崎、雲仙と阿蘇、別府とを結ぶ国際観光ルートとして注目され、多くの観光客を呼び込むことになります。
 
〇「天草五橋」の特徴
・1号橋(天門橋)形式:トラス橋、全長502m 宇土半島先端~大矢野島
・2号橋(大矢野橋)形式:ランガートラス橋、全長249m 大矢野島~永浦島
・3号橋(中の橋)形式:PC箱桁橋、全長361m 永浦島~池島
・4号橋(前島橋)形式:PC箱桁橋、全長510m 池島~前島
・5号橋(松島橋)形式:パイプアーチ橋、全長178m 前島~天草上島東端
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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、思想家・社会運動家幸徳秋水の生まれた日ですが、新暦では11月5日となります。
 幸徳秋水は、明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されます。また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草しました。
 日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社します。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開しました。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めました。
 1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされます。そして、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。
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 今日は、1868年(明治元)に、戊辰戦争で鶴ヶ城(会津若松城)が開城され、会津藩が新政府軍に降伏した日ですが、新暦では11月6日となります。
 戊辰戦争で会津藩は、「奥羽越列藩同盟」の一員として、薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と戦いました。このため、会津(現在の福島県会津若松市)は、最大の激戦地となり、城下町は灰燼に帰し、多くの人材が喪われたのです。少年藩士が集団自決した、白虎隊の悲劇はこのとき、飯盛山で起こりました。
 現在でも市内には、多くの墓石が残り、その戦闘の激しさを今に伝えていますが、鶴ヶ城(会津若松城)を巡って壮絶な戦いが行われたのです。(この戦いは会津戦争とも呼ばれています)
 今でも、鶴ヶ城(会津若松城)の堀は深く、石垣は高く、再建されたものとはいえ天守閣もそびえ、最上階からは市内が一望の下に見渡され、飯盛山もうかがうことができました。
 また、旧滝沢本陣跡は、戊辰戦争の時に白虎隊が出陣して行った所ですが、今でも当時の弾痕が生々しく残されています。
 近くの妙國寺は、白虎隊士が埋葬されたところで、なんでも、戦後埋葬が許されず、野晒しになっていたところ密かに夜な夜な運んで埋葬したとのことでした。
 尚、西軍墓地というのもあり、訪れる人もほとんどなく、ひっそりとしていましたが、西軍十余藩174柱が眠ると記されていて、多くの墓標が立ち、両軍共に犠牲が多かったことが知られるところです。

〇「奥羽越列藩同盟」とは?
 幕末明治維新期の戊辰戦争中に東北地方(25藩)と越後(6藩)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された軍事同盟です。
 最初は、奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟でしたが、赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権の確立を目的とした軍事同盟に変化しました。
 これに、江戸などから落ち延びてきた旧幕府勢力が加わって、薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と対峙することになりました。

〇「戊辰戦争」とは?
 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆戊辰戦争の推移

<1868年(慶応4/明治元)>
 ・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる
 ・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる
 ・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
 ・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
 ・4月11日 江戸城が無血開城される
 ・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
 ・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる
 ・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日でやぶる
 ・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
 ・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
 ・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
 ・9月8日 明治に改元される
 ・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
 ・9月10日 仙台藩が降伏する
 ・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
 ・10月25日 榎本武揚軍が箱館を占領する

<1869年(明治2)>
 ・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
 ・5月11日 箱館総攻撃が始まる
 ・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる
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 今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、室戸台風が京阪神地方を直撃し、大きな被害を出した日です。
 この台風は、1934年(昭和9)9月21日朝に、室戸岬(現在の高知県室戸市)付近に上陸し、本州を横断、日本海から三陸沖へ抜けた超大型台風のことです。
 京阪神地方を中心に、全国的に大きな被害を出し、死者2,702人、行方不明者334人、住宅損壊9万2,740棟、浸水家屋40万1,157棟、船舶被害2万7,594隻にも及びました。
 室戸岬では911.9hPa(ヘクトパスカル)いう記録的な最低気圧を観測し、最大瞬間風速は 60m/sをこえたと推定され、日本各地に多大な風水害を引き起こしたのです。
 特に、大阪湾では高さ約4mの高潮が起こり、沿岸の大阪府・兵庫県等の工業地帯では、被害が特に甚大でした。とりわけ痛ましかったのは、木造の学校校舎が全国で約300校倒壊し、先生や生徒がその下敷きとなって、多数の死傷者を出したことです。
 その後、「室戸台風」と呼ばれることとなりましたが、枕崎台風(1945年)、伊勢湾台風(1959年)と並んで昭和の三大台風の一つに数えられるようになりました。

〇陸上(気象官署)における観測で中心気圧が低い台風ベスト10

1.沖永良部台風(昭和52年台風第9号)907.3hPa 1977年(昭和52)9月9日観測[鹿児島県沖永良部]
2.宮古島台風(昭和34年台風第14号)908.1hPa 1959年(昭和34)9月15日観測[沖縄県宮古島]
3.室戸台風 911.6hPa 1934年(昭和9)9月21日観測[高知県室戸岬]
4.平成15年台風第14号 912.0hPa 2003年(平成15)9月11日観測[沖縄県宮古島]
5.枕崎台風(昭和20年台風第16号)916.3hPa 1945年(昭和20)9月17日観測[鹿児島県枕崎]
6.第2室戸台風(昭和36年台風第18号)918.0hPa 1961年(昭和36)9月15日観測[鹿児島県名瀬]
7.昭和5年台風 922.0hPa 1930年(昭和5)8月9日観測[沖縄県南大東島]
8.昭和38年台風第14号 923.5hPa 1963年(昭和38)9月10日観測[沖縄県石垣島]
9.平成18年台風第13号 923.8hPa 2006年(平成18)9月16日観測[沖縄県西表島]
10.平成16年台風第18号 924.4hPa 2004年(平成16)9月5日観測[沖縄県名護]
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