戊辰戦争で会津藩は、「奥羽越列藩同盟」の一員として、薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と戦いました。このため、会津(現在の福島県会津若松市)は、最大の激戦地となり、城下町は灰燼に帰し、多くの人材が喪われたのです。少年藩士が集団自決した、白虎隊の悲劇はこのとき、飯盛山で起こりました。
現在でも市内には、多くの墓石が残り、その戦闘の激しさを今に伝えていますが、鶴ヶ城(会津若松城)を巡って壮絶な戦いが行われたのです。(この戦いは会津戦争とも呼ばれています)
今でも、鶴ヶ城(会津若松城)の堀は深く、石垣は高く、再建されたものとはいえ天守閣もそびえ、最上階からは市内が一望の下に見渡され、飯盛山もうかがうことができました。
また、旧滝沢本陣跡は、戊辰戦争の時に白虎隊が出陣して行った所ですが、今でも当時の弾痕が生々しく残されています。
近くの妙國寺は、白虎隊士が埋葬されたところで、なんでも、戦後埋葬が許されず、野晒しになっていたところ密かに夜な夜な運んで埋葬したとのことでした。
尚、西軍墓地というのもあり、訪れる人もほとんどなく、ひっそりとしていましたが、西軍十余藩174柱が眠ると記されていて、多くの墓標が立ち、両軍共に犠牲が多かったことが知られるところです。
〇「奥羽越列藩同盟」とは?
幕末明治維新期の戊辰戦争中に東北地方(25藩)と越後(6藩)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された軍事同盟です。
最初は、奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟でしたが、赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権の確立を目的とした軍事同盟に変化しました。
これに、江戸などから落ち延びてきた旧幕府勢力が加わって、薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と対峙することになりました。
〇「戊辰戦争」とは?
幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。
☆戊辰戦争の推移
<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸城が無血開城される
・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日でやぶる
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月25日 榎本武揚軍が箱館を占領する
<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる