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 今日は、江戸時代後期の1793年(寛政5)に、武士・画家 渡辺崋山の生まれた日ですが、新暦では10月20日となります。
 渡辺崋山は、江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれました。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となりしました。家老として藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。
 天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、「慎機論」を著して、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。
 画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇「蛮社の獄」とは?

 江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) の判決が下されたのです。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていました。