ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年08月

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 今日は、平成時代の、1993年(平成5)に、レインボーブリッジ(東京港連絡橋)の開通した日です。
 この橋は、正式名称を東京港連絡橋といい、東京都港区芝浦地区と台場地区とを結ぶ吊り橋です。1987年(昭和62)に着工されましたが、当時建設中の東京臨海副都心と都心とを繋ぎ、また都心への交通集中を解消するという役割がありました。
 しかし、空と海と陸の交通の要所となる東京港周辺という立地から、上空は羽田空港への飛行機のため、主塔の高さに制限があり、下は大型船が通行するための航路設計が必要で、工法等にも様々な制約があったのです。それでも、6年ほどで竣工し、一般公募により「レインボーブリッジ」の愛称が決められました。
 橋の構造は、芝浦側アプローチ部1,465mと吊り橋部918mと台場側アプローチ部1,367mからなり、吊り橋部の中央径間(主塔間の距離)は570m、幅は29m、主塔の高さは126mあります。
 通常は吊り橋部のみの橋長798mの橋とされていて、建設当時は、東日本最長の吊り橋(中央径間の長さで比較)でしたが、1998年(平成10)に白鳥大橋(北海道室蘭市)に抜かれたものの、現在日本の13位です。
 また、吊り橋部は上下2層構造になっていて、上部が首都高速11号台場線、下部が新交通システムゆりかもめの軌道と一般道の車道・歩道となっている鉄道道路併用橋です。

〇日本の長大吊り橋ベスト15(中央径間の長さで比較しています)

1. 明石海峡大橋(兵庫県神戸市垂水区・淡路市)中央径間1,991m…1998年開通
2. 南備讃瀬戸大橋(香川県坂出市)中央径間1,100m…1988年開通
3. 来島海峡第三大橋(愛媛県今治市)中央径間1,030m…1999年開通
4. 来島海峡第二大橋(愛媛県今治市)中央径間1,020m…1999年開通
5. 北備讃瀬戸大橋(香川県坂出市)中央径間990m…1988年開通
6. 下津井瀬戸大橋(岡山県倉敷市・香川県坂出市)中央径間940m…1988年開通
7. 大鳴門橋(徳島県鳴門市・兵庫県南あわじ市)中央径間876m…1985年開通
8. 因島大橋(広島県尾道市)中央径間770m…1983年開通
9. 安芸灘大橋(広島県呉市)中央径間750m…2000年開通
10. 白鳥大橋(北海道室蘭市)中央径間720m…1998年開通
11. 関門橋(福岡県北九州市門司区・山口県下関市)中央径間712m…1973年開通
12. 来島海峡第一大橋(愛媛県今治市)中央径間600m…1999年開通
13. 東京港連絡橋<レインボーブリッジ>(東京都)中央径間570m…1993年開通
14. 大島大橋(広島県尾道市・愛媛県今治市)中央径間560m…1988年開通
15. 豊島大橋(広島県呉市)中央径間540m…2008年開通
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 今日は、戦国時代の1543年(天文12)に、ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝来した日とされていますが、新暦では9月23日となります。
 これは、戦国時代の日本の種子島に火縄銃型の鉄砲が伝来した事件を指しています。その時に、鉄砲の現物のほか、その製造技術や射撃法なども伝わったとされていました。
 伝来した年代については、西洋側の記録(『日本教会史』、『アジア誌』、『ビーリャロボス艦隊報告』)は 1542年とするものが多いのですが、日本側のほぼ唯一の記録として、江戸時代の1606年(慶長11)に種子島久時 が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた『鉄炮記』には、1543年(天文12年8月25日)に、種子島の西岸にある西ノ村の前之浜(現在の鹿児島県熊毛郡南種子町)に南蛮船が来着し、上陸したボルドガル人によってもたらされたとしています。
 この地の領主だった種子島時堯はこれを二挺購入し、家臣に使い方と製造法を修得させ、翌年にはこの地で生産できるようになったので、火縄銃のことを“種子島”とも呼ぶようになりました。
 その後、同じものの製作と使用が広がって、戦国合戦の様相を大きく変えたのです。

〇南浦文之(玄昌)編『鉄炮記』(全文)

 隅州の南に一嶋あり。州を去ること一十八里、名づけて種子と日う。我が祖世々焉に居す。古来相伝う、島を種子と名づくるは、此の島小なりと雖も、其の居民庶くして且つ富み、譬えば播種に一種子を下して生々に窮り無きが如し、この故に名づくと。

 是より先、天文癸卯秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船有り。何れの国より来るかを知らず、船客百余人、其の形類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪となす。其の中に大明の儒生一人あり、五峰と名づくる者なり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶五峰にあい、杖を以て沙上に書して云く、『船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや』と。五峯即ち書して云く、『此れはこれ西南蛮種の賈胡あり、粗君臣の義を知ると雖も、未だそお礼貌の其の中に在るを知らず、これ故に其の飲するや杯飲して杯せず、其の食するや手食して箸せず、徒に嗜欲の其の情に□うを知り、文字の其の理に通うを知らざる也、所謂賈胡は一処に到りて轍つ止むとは、これ其の種なり、其の有る所を以て其の無き所に易えんのみ、怪しむべき者には非ず』と。是に於て、織部丞又書して云ふ「此を去ること十又三里にして一津あり。津を赤尾木と名づく。我が由って頼む所の宗子、世々居る所の地なり。津口数千戸あり。戸ごとに富み、家ごとに昌えて、南商北賈、往還織るが如し。今船を此に繋ぐと雖も、要津の深くして且つ漣たざるの愈るに若かず。之を我が祖父恵時と老父時尭とに告げん」と。

 時尭即ち扁艇数十をして之を拏いて、二十七日己亥、船を赤尾木の津に入れしむ。斯の時に丁って津に忠首座なる者あり。日州龍源の徒なり。法華一乗の妙を聞かんと欲して津口に寓止し、終に禅を改めて法華の徒と為り、号して住乗院と日ふ。殆ど経書に通じ、筆を揮うこと敏捷なり。偶々五峯に遇ひ、文字を以て言語を通ず。五峯亦以為へらく「知己の異邦に在る者なり」と。いはゆる同声相応じ、同気相求むる者なり。

 賈胡の 長二人有り、一を牟良叔舎と日い、一を喜利志多佗太と日う。手に一物を携う。長さ二、三尺。其の体たるや、中通り外は直く、しかも重きを以て質となす。其の中常に通ると雖も、其の底密塞を要す。其の傍に一穴有り、火を通すの路なり。形象物の比倫すべきなきなり。 其の用たるや、妙薬を其の中に入れ、添ふるに小団鉛を以てす。先ず一小白を岸畔に置き、親ら一物を手にして其の身を修め、其の目を眇にして、其の一穴より火を放てば、則ち立ち所に中らざるはなし。其発するや掣電光の如く、其鳴るや驚雷の轟の如く、聞く者其耳を掩わざるはなし。一小白を置くものは、射者の鵠を侯中に棲くの比の如し。此の物一たび発せば、銀山も摧くべく鉄壁も穿つべし。姦きの仇を人の国に為す者、之に触るれば則ち立ろに其の魄を喪ふ。況や麋鹿の苗稼に禍する者をや。其の世に用あるもの勝げて数ふべからず。

 時尭之を見て以為へらく「希世の珍なり」と。始め其の何の名なるを知らず。其の何の用為るかを詳にせず。既にして人名づけて鉄砲と為すものは、知らず、明人の名づくる所か。抑々知らず、我が一島の者の名づくる所か。

 一日、時尭重訳して、二人の蛮種に謂って曰く「我、之を能くすと日ふには非ざるも、願はくは之を学ばん」と。蛮種も亦訳を重ねて答へて曰く「君若し之を学ばんと欲せば、我も亦其の蘊奥をつくして以て之を告げん」と。時尭曰く「蘊奥得て聞くべきか」と。蛮種曰く「心を正すと目を眇むるとに在るのみ」と。時尭曰く「心を正すとは先聖の以て人を教ふる所にして、我の以て之を学ぶ所なり。大凡天下の理、事に斯に従はずんば、動静云為自ら差ふこと無き能はず。公のいはゆる心を正す、豈復た異なることあらんや。目を眇むるものは其の明、以て遠きを燭すに足らず。之を如何ぞ、其の目を眇むるや」と。蛮種答へて曰く「夫れ、物は約を守るを要す。約を守る者は、博く見るを以て未だ至らずと為す。目を眇むる者は、之を見るの明らかならざるには非ず。其の約を守りて以て之を遠きに致さんと欲するなり。君、其れ之を察せよ」。時尭喜んで曰く「老子のいはゆる見ること小なるを明と日ふとは、其れ斯の謂か」と。

 是の歳、重九の節、日、辛亥に在り、良辰を涓取して、試みに妙薬と小団鉛とを其の中に入れ、一小白を百歩の外に置きて、之が火を放てば、則ち其れ殆ど庶幾いかな。時人、始めにしては驚き、中ごろにしては恐れて之を畏れ、終りにしては翕然として亦曰く「願はくは之を学ばん」と。

 時尭其の価の高くして及び難きを言はずして、蛮種の二鉄炮を求め、以て家珍となす。其の妙薬の擣篩和合の法は、小臣篠河小四郎をして之を学ばしむ。時尭、朝に磨し夕に淬し、勤めて已まず。向の殆ど庶幾きもの、是に於てか百発百中、一も失するもの無し。

 此の時に於て、紀州根来寺に杉の坊某公といふ者あり。千里を遠しとせずして我が鉄砲を求めんと欲す。時尭、人の之を求むるの深きを感ずるや、其の心に之を解して曰く「昔、徐君、季札の剣を好む。徐君、口に敢へて言はずと雖も、季札、心に已に之を知る。終に宝剣を解けり。吾が島偏小なりと雖も、何ぞ敢へて一物を愛しまんや。且つ復た、我が求めずして自ら得るすら喜んで寝ねられず。十襲して之を秘す。而るを況や、来って求めて得ずんば、豈復た心に快からんや。我の欲する所は、亦人の好む所なり。我、豈敢へて独り己に私して匱におさめて之を蔵せんや」と。即ち津田監物丞を遣はし、持して以て其の一を杉の坊に贈らしむ。且つ、妙薬の法と放火の道を知らしむ。時尭、把玩の余り、鉄匠数人をして熟々其の形象を見、月に鍛へ、季に錬りて、新たに之を製せしめんと欲す。其の形制は頗る之に似たりと雖も、其の底の之を塞ぐ所以を知らず。

 其の翌年、蛮種の賈胡、また我が島の熊野一の浦に来る。浦を熊野と名づくるものは、亦、小廬山、小天竺の比なり。賈胡の中に幸ひに一人の鉄匠あり。時尭以為へらく「天の授くる所なり」と。即ち金兵衛清定といふ者をして、其の底の塞ぐ所を学ばしむ。漸く時月を経て、其の巻いて之を蔵むるを知れり。是に於て歳余にして新たに数十の鉄砲を製す。然る後に其の臺の形制と、其の飾の鍵鑰の如き者とを製造す。時尭の意、其の臺と其の飾とに在らず。之を軍を行るの時に用ゐるべきに在り。是に於てか家臣の遐邇に在る者、視て之を效ひて、百発百中する者、亦其の幾許なるを知らず。

 其の後、和泉の堺に橘屋又三郎といふ者あり。商客の徒なり。我が島に寓止するもの一・二年にして、鉄砲を学ぶもの殆ど熟せり。帰郷の後、人皆名いはずして、呼んで鉄砲又と日ふ。然る後、畿内の近邦皆伝へて之を習ふ。翅に、畿内、関西の得て之を学ぶのみに非ず。関東も亦然り。

 我嘗て之を故老に聞く。

 曰く「天文壬寅、癸卯の交、新貢の三大船、将に南の方、大明国に遊ばんとす。是に於て畿内以西の富家の子弟、進んで商客と為るもの殆ど千人、楫師、さを師の船を操ること神の如き者数百人、船を我が小島に艤す。既にして天の時を待ち、纜を解き、橈を斉へ洋を望んで若に向ふ。不幸にして狂風、海を掀り、怒涛、雪を捲いて、坤軸も亦折けんと欲す。吁、時なるか、命なるか。一貢船は檣傾き、楫摧け烏有に化して去る。二貢船は、漸くにして大明国寧波府に達す。三貢船は乗りきることを得ずして我が小島に回る。翌年再び其の纜を解いて南遊の志を遂げ、飽くまで海貨蛮珍を載せて将に我が朝に帰らんとす。大洋の中にして黒風忽ち起こり、西東を知らず。船、遂に飄蕩して東海道伊豆州に達す。州人、其の貨を掠め取る。商客も亦其の所を失ふ。船中に我が僕臣松下五郎三郎といふ者ありて、手に鉄砲を携ふ。既に発して其の鵠に中らざる莫し。州人見て之を奇とし、窺伺傚慕して多く之を学ぶ者あり。茲より以降、関東八州曁び率土の浜、伝へて之を習はざるはなし」と。

 今、夫れ此の物の我が朝に行はるるや、蓋し六十有余年なり。鶴髪の翁なほ明らかに之を記ゆる者あり。是に知る、向に蛮種の二鉄砲、我が時尭、之を求め之を学び、一発、扶桑六十余州を聳動せしめ、且つ復た、鉄匠をして之を製するの道を知らしめて、五畿七道に偏からしむ。然れば則ち、鉄砲の我が種子島に権輿するや明らかなるを、昔、一種子の生々無窮の義を採って、我が島に今以て其の讖に符へりと為す。古曰く「先徳、 善あるに、世に昭々たる能はざるは、後世の過ちなり」と。因って之を書す。

 慶長十一年丙午重九の節

 種子島左近太夫将監藤原久時(花押)

                           『南浦文集』の「鉄砲記」より

 *縦書きの漢文の原文を読み下し文の横書きに改め、段落を分けて句読点を付してあります。
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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、歌人若山牧水か生まれた日です。
 若山牧水は、明治時代後期から昭和時代前期に活躍した歌人で、本名は若山繁といいます。1885年(明治18)8月24日、宮崎県東臼杵郡東郷村(現在の日向市)に生まれ、旧制延岡中学校(現在の県立延岡高等学校)卒業後、早稲田大学予科を経て、早稲田大学文学部英文科に学びました。
 1905年(明治38)、尾上紫舟を中心に車前草社を結び、1910年(明治43)刊行の第3歌集『別離』によって歌人としての地位を確立、翌年、創作社を結成して主宰しました。
 自然主義の代表歌人で、歌集『路上』『くろ土』『山櫻の歌』などが知られています。酒と旅をこよなく愛し、日本中を旅行し、朝鮮半島へも出向いています。
 その歌は広く愛誦され、日本各地に歌碑が建てられていますが、『みなかみ紀行』をはじめ紀行文にも定評があり、各地を旅したものが残っています。
 1920年(大正9)に、沼津市の千本松原に居を構えますが、1928年(昭和3)9月17日に43歳の若さで没しました。旅と酒と自然を愛し、生涯で約8,600余首を詠んだのです。

<代表的な歌>
「幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく」
「白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」

〇若山牧水の主要な作品

<歌集>
 ・第1歌集『海の声』(1908年7月出版)
 ・第2歌集『独り歌へる』(1910年1月出版)
 ・第3歌集『別離』(1910年4月出版)
 ・第4歌集『路上』(1911年9月出版)
 ・第5歌集『死か芸術か』(1912年9月出版)
 ・第6歌集『みなかみ』(1913年9月出版)
 ・第7歌集『秋風の歌』(1914年4月出版)
 ・第8歌集『砂丘』(1915年10月出版)
 ・第9歌集『朝の歌』(1916年6月出版)
 ・第10歌集『白梅集』(1917年8月出版)
 ・第11歌集『さびしき樹木』(1918年7月出版)
 ・第12歌集『渓谷集』(1918年5月出版)
 ・第13歌集『くろ土』(1921年3月出版)
 ・第14歌集『山桜の歌』(1923年5月出版)
 ・第15歌集『黒松』(1938年9月出版)

<紀行文>
 ・『比叡と熊野』(1919年9月出版)
 ・『静かなる旅をゆきつつ』(1920年7月出版)
 ・『みなかみ紀行』(1924年7月出版)

☆『みなかみ紀行』とは?
 若山牧水の大正時代の紀行文で、牧水の紀行文中最長で、利根川の水源を訪ねるという意味で命名されました。
 1922年(大正11)10月14日沼津の自宅を立ち、長野県・群馬県・栃木県を巡って、11月5日に帰着する24日間の長旅の一部を綴ったものです。
 この旅のかなりの部分は、若い弟子達と代わる代わる連れ立っての徒歩旅行で、文中にその情景を歌った短歌が散りばめられているのです。
 現在、このルートはロマンチック街道と銘打って観光コース化されています。
 以下に、『みなかみ紀行』の冒頭部分を引用しておきます。

 十月十四日午前六時沼津發、東京通過、其處よりM―、K―、の兩青年を伴ひ、夜八時信州北佐久郡御代田驛に汽車を降りた。同郡郡役所所在地岩村田町に在る佐久新聞社主催短歌會に出席せんためである。驛にはS―、O―、兩君が新聞社の人と自動車で出迎へてゐた。大勢それに乘つて岩村田町に向ふ。高原の闇を吹く風がひし/\と顏に當る。佐久ホテルへ投宿。
 翌朝、まだ日も出ないうちからM―君たちは起きて騷いでゐる。永年あこがれてゐた山の國信州へ來たといふので、寢てゐられないらしい。M―は東海道の海岸、K―は畿内平原の生れである。
「あれが淺間、こちらが蓼科、その向うが八ヶ岳、此處からは見えないがこの方角に千曲川が流れてゐるのです。」
 と土地生れのS―、O―の兩人があれこれと教へて居る。四人とも我等が歌の結社創作社社中の人たちである。今朝もかなりに寒く、近くで頻りに山羊の鳴くのが聞えてゐた。
 私の起きた時には急に霧がおりて來たが、やがて晴れて、見事な日和になつた。遠くの山、ツイ其處に見ゆる落葉松の森、障子をあけて見て居ると、いかにも高原の此處に來てゐる氣持になる。私にとつて岩村田は七八年振りの地であつた。
 お茶の時に山羊の乳を持つて來た。
「あれのだネ。」
 と、皆がその鳴聲に耳を澄ます。
 會の始まるまで、と皆の散歩に出たあと、私は近くの床屋で髮を刈つた。今日は日曜、土地の小學校の運動會があり、また三杉磯一行の相撲があるとかで、その店もこんでゐた。床屋の内儀が來る客をみな部屋に招じて炬燵に入れ、茶をすすめて居るのが珍しかつた。
 歌會は新聞社の二階で開かれた。新築の明るい部屋で、麗らかに日がさし入り、階下に響く印刷機械の音も醉つて居る樣な靜かな晝であつた。會者三十名ほど、中には松本市の遠くから來てゐる人もあつた。同じく創作社のN―君も埴科郡から出て來てゐた。夕方閉會、續いて近所の料理屋の懇親會、それが果てゝもなほ別れかねて私の部屋まで十人ほどの人がついて來た。そして泊るともなく泊ることになり、みんなが眠つたのは間もなく東の白む頃であつた。

 (後略)
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争中の1944年(昭和19)に、「学徒勤労令」が公布・施行された日ですが、同時に「女子挺身隊勤労令」も出されています。
 昭和時代前期の日中戦争最中の1938年(昭和13)6月に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、すでに学生・生徒は長期休業中に3~5日勤労奉仕することを義務づけられていました。
 それを恒常化したのが1939年(昭和14)の木炭や食料の増産運動からで、学生・生徒は正課として作業に参加することになったのです。
 さらに、1941年(昭和16)2月には、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出され、同年8月には学校報国隊が結成されました。
 その後、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきます。
 その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたものが、「学徒勤労令」で、同じ日に「女子挺身隊勤労令」も出されました。
 その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されます。また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとしました。このような学徒の全面的な動員に対して、政府は12月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置されたのです。
 以後、この勅令は、昭和20年勅令第96号および同勅令第510号により2度改正がなされて、強化されました。
 この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は10,966人、傷病者は9,789人にも及んだのです。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、1945年(昭和20)10月11日をもって、この勅令は廃止されることになりました。
 以下に、最初に出された「学徒勤労令」の全文を掲載しておきます。

〇「学徒勤労令」(全文)1944年(昭和19)8月23日に公布・施行

学徒勤労令 (昭和19年勅令第518号)

第一条 国家総動員法第五条ノ規定ニ基ク学徒(国民学校初等科及之ニ準ズベキモノノ児童並ニ青年学校ノ生徒ヲ除ク)ノ勤労協力及之ニ関連スル教職員ノ勤労協力(以下学徒勤労ト総称ス)ニ関スル命令並ニ同法第六条ノ規定ニ基ク学徒勤労ヲ為ス者ノ使用又ハ従業条件ニ関スル命令ニシテ学徒勤労ヲ受クル者ニ対スルモノニ付テハ当分ノ内本令ノ定ムル所ニ依ル

第ニ条 学徒勤労ハ教職員及学徒ヲ以テスル隊組織(以下学校報国隊ト称ス)ニ依ルモノトス但シ命令ヲ以テ定ムル特別ノ場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ学校報国隊ニ依ラザルコトヲ得

第三条 学徒勤労ニ当リテハ勤労即教育タラシムル様力ムルモノトス

第四条 学徒勤労ハ国、地方公共団体又ハ厚生大臣若ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監)ノ指定スル者ノ行フ命令ヲ以テ定ムル総動員業務ニ付之ヲ為サシムルモノトス

第五条 引続キ学徒勤労ヲ為サシムル期間ハ一年以内トス

第六条 学校報国隊ニ依ル学徒勤労ニ付其ノ出動ヲ求メントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ文部大臣又ハ地方長官ニ之ヲ請求又ハ申請スベシ学校ノ校地、校舎、設備等ヲ利用シテ為ス学校報国隊ニ依ル学徒勤労ニ付亦同ジ

第七条 前条ノ規定ニ依ル請求又ハ申請ハ厚生大臣又ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監)ガ割当テタル人員ノ範囲内ニ於テ之ヲ為スモノトス但シ命令ヲ以テ定ムル特別ノ場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラズ

第八条 文部大臣又ハ地方長官第六条ノ規定ニ依ル請求又ハ申請アリタルトキハ特別ノ事情アル場合ヲ除クノ外学校長ニ対シ学徒勤労ヲ受クベキ者、作業ノ種類、学徒勤労ヲ為スベキ場所及期間並ニ所要人員数其ノ他必要ナル事項ヲ指定シテ学校報国隊ノ出動ニ関シ必要ナル措置ヲ命ズルモノトス

第九条 前条ノ措置ヲ命ゼラレタル学校長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ学校報国隊ニ依ル学徒勤労ヲ為スベキ者ヲ選定シ其ノ選定アリタル旨ヲ本人ニ通知シ学徒勤労ニ関シ必要ナル事項ヲ指示スベシ

第十条 命令ヲ以テ定ムル特別ノ場合ニ於テハ第六条ノ規定ニ依ル請求又ハ申請ハ之ヲ当該学校長ニ為スモノトス
2 前項ノ場合ニ於テ学校長ハ特別ノ事情アル場合ヲ除クノ外直ニ前条ニ規定スル措置ヲ為スモノトス

第十一条 前二条ノ規定ニ依ル通知ヲ受ケタル者ハ同条ノ規定ニ依ル指示ニ従ヒ学校報国隊ニ依ル学徒勤労ヲ為スベシ

第十二条 文部大臣又ハ地方長官ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特別ノ事情アル場合ニ於テハ学校報国隊ニ依ル学徒勤労ノ全部又ハ一部ノ停止ニ関シ必要ナル措置ヲ為スコトヲ得

第十三条 隊長タル学校長又ハ教職員ハ当該学校報国隊ノ隊員ノ学徒勤労ニ関シ其ノ隊員ヲ指揮監督ス

第十四条 文部大臣又ハ地方長官ハ学徒勤労ヲ受クル工場、事業場等ノ職員ニ対シ学徒勤労ノ指導ニ関スル事務ヲ嘱託スルコトヲ得

第十五条 学徒勤労ニ要スル経費ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特別ノ事情アル場合ヲ除クノ外学徒勤労ヲ受クル者之ヲ負担スルモノトス

第十六条 厚生大臣(軍需省所管企業ニ於ケル勤労管理及給与ニ関スル事項ニ付テハ軍需大臣)及文部大臣又ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監ヲ含ム)必要アリト認ムルトキハ国家総動員法第六条ノ規定ニ基キ学徒勤労ヲ受クル事業主ニ対シ学徒勤労ヲ為ス者ノ使用又ハ従業条件ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得
2 学徒勤労ヲ為ス者ガ業務上負傷シ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタル場合ニ於ケル本人又ハ其ノ遣族ノ扶助ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第十七条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ学徒勤労ヲ為サシメザルモノトス但シ学徒勤労ヲ為ス者ニシテ第三号ニ該当スルニ至リタルモノハ此ノ限ニ在ラズ
 一 陸海軍軍人ニシテ現役中ノモノ(未ダ入営セザル者ヲ除ク)及召集中ノモノ(召集中ノ身分取扱ヲ受クル者ヲ含ム)
 二 徴用中ノ者
 三 陸軍大臣若ハ海軍大臣ノ所管ニ属スル官衙(部隊及学校ヲ含ム)又ハ厚生大臣ノ指定スル工場、事業場其ノ他ノ場所ニ於テ軍事上必要ナル総動員業務ニ従事スル者
 四 法令ニ依リ拘禁中ノ者

第十八条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ志願ニ依ル場合ヲ除クノ外学徒勤労ヲ為サシメザルモノトス
 一 厚生大臣ノ指定スル総動員業務ニ従事スル者
 二 其ノ他厚生大臣ノ指定スル者

第十九条 文部大臣又ハ地方長官ハ命令ノ定ムル所ニ依リ学徒勤労ニ関シ学校長又ハ学徒勤労ヲ為ス者若ハ学徒勤労ヲ受クル事業主ヲ監督ス

第二十条 第六条乃至第十二条ノ規定ハ学校報国隊ニ依ラズシテ為ス学徒勤労ニ之ヲ準用ス

第二十一条 第十六条及第十九条ノ規定ハ事業主タル国及都道府県ニ之ヲ適用セズ

第二十二条 本令ニ於テ学徒ト称スルハ文部大臣ノ所轄ニ属スル学校ノ学徒ヲ謂ヒ学校ト称スルハ第十七条第三号ノ場合ヲ除クノ外文部大臣ノ所轄ニ属スル学校ノ長ヲ謂フ

第二十三条 前条ノ規定ハ朝鮮及台湾ニハ之ヲ適用セズ
2 第六条、第八条、第十二条及第十四条ノ中文部大臣トアルハ朝鮮ニ在ル学校ノ学徒ニ関シテハ朝鮮総督、台湾ニ在ル学校ニ関シテハ台湾総督トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在ル学校ノ学徒ニ関シテハ道知事、台湾ニ在ル学校ノ学徒ニ関シテハ州知事又ハ庁長トス
3 前項ノ場合ヲ除クノ外本令中厚生大臣トアリ又ハ文部大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮総督、台湾ニ在リテハ台湾総督トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在リテハ道知事、台湾ニ在リテハ州知事又ハ庁長トス
4 本令中都道府県トアルハ朝鮮ニ在リテハ道、台湾ニ在リテハ州又ハ庁トス

第二十四条 学徒勤労ニハ国民勤労報国協力令ハ之ヲ適用セズ

第二十五条 本令ニ規定スルモノノ外学徒勤労ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

  附 則

1 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
2 本令施行ノ際現ニ国民勤労報国協力令ニ依リテ為ス学校在学者ノ国民勤労報国隊ニ依ル協力ハ之ヲ本令ニ依ル学徒勤労ト看做ス

                            「官報」より
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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、詩人・小説家 島崎藤村の亡くなった日で、藤村忌と呼ばれています。
 島崎藤村は、明治時代後期から昭和時代前期にかけて活躍した詩人・小説家で、本名は春樹といいます。1872年(明治5)筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治学院普通部本科に学びました。
 卒業後、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となり、翌年、雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表しました。
 1896年(明治29)に、東北学院教師となり、仙台に赴任、ロマン主義詩人として、1897年(明治30)に第一詩集『若菜集』を発表して文壇に登場することになります。
 1899年(明治32)に、小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間過ごす中で、随筆(写生文)「千曲川のスケッチ」を書きました。
 その後上京し、1906年(明治39)に小説『破戒』を出版、文壇からは本格的な自然主義小説として評価されることになります。
 以後、『春』『家』『新生』『夜明け前』などの小説を発表、1935年(昭和10)には、日本ペンクラブを結成し、初代会長に就任しましたが、1943年(昭和18)8月22日に71歳で、神奈川県大磯町にて没しました。

〇島崎藤村の主要な作品

<詩集>
・「若菜集」 春陽堂刊(1897年8月)
・「一葉舟」 春陽堂刊(1898年6月)
・「夏草」 春陽堂刊(1898年12月)
・「落梅集」 春陽堂刊(1901年8月)

<小説>
・「旧主人」 『明星』に発表(1902年11月)
・「破戒」 自費出版(1906年3月)
・「春」 自費出版(1908年10月)
・「家」 自費出版(1911年11月)
・「桜の実の熟する時」 春陽堂刊(1919年1月)
・「新生」 春陽堂刊(1919年1・12月)
・「ある女の生涯」 『新潮』に発表(1921年7月)
・「嵐」 『改造』に発表(1926年9月)
・「夜明け前」 新潮社刊(第1部1929年1月、第二部1935年11月)

<写生文>
・「千曲川のスケッチ」 (1912年12月)

<紀行文>
・「伊豆の旅」 『太陽』に発表(1909年4月)
・「海へ」 実業之日本社刊(1918年)
・「山陰土産」 『大阪朝日新聞』に発表(1927年7月~9月)

<童話>
・「眼鏡」 実業之日本社刊(1913年2月)
・「ふるさと」 実業之日本社刊(1920年12月)
・「おさなものがたり」 研究社刊(1924年1月)
・「幸福」 弘文館刊(1924年5月)

☆島崎藤村著「夜明け前」の冒頭部分

 木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋もれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降って来た。道の狭いところには、木を伐って並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷の最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。
 東山道とも言い、木曾街道六十九次とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否でも応でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
 馬籠は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿しゅくを見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主おもな部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名こなの家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町、みつや、横手、中のかや、岩田、峠などの部落がそれだ。そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る。名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。
 本陣の当主吉左衛門と、年寄役の金兵衛とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、二人ふたりともすでに五十の坂を越していた。吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでに半蔵という跡継ぎがある。しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもその沙汰さたがあって、いよいよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。

 (後略)
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