今日は、大正時代の1913年(大正2)に、医師エルヴィン・フォン・ベルツの亡くなった日です。
ベルツは、明治時代前期に日本に招かれたお雇い外国人の一人で、ドイツ人医師です。1849年(嘉永2)南ドイツのビーティヒハイムに生まれ、1866年(慶応元)チュービンゲン大学で医学を修め、ライプツィヒ大学で臨床を学びました。
1876年(明治9)、日本政府の招聘により来日し、東京医学校(後の東京大学医学部)で内科教授として教鞭をとりました。
その頃、日本の医療上で大きな問題となっていた寄生虫病、恙虫病、脚気などの研究で業績を上げましたが、日本の温泉の医療における活用をすすめたことでも知られています。
1881年(明治14)、東海道御油宿(現在の愛知県豊川市御油町)戸田屋の荒井花子と結婚し、1男1女をもうけましたが、1905年(明治38)に帰国しました。そして、1913年(大正2)8月31日にドイツにおいて、64歳で亡くなっています。
1880年(明治13)に著した『日本鉱泉論』(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書の翻訳書)と日記や手紙を編集した『ベルツの日記』、そして、「ベルツ水」が有名です。
尚、愛知県豊川市の西明寺に墓碑・供養塔と水原秋桜子による顕彰句碑があります。
〇『ベルツの日記』とは?
1876年(明治9)、日本政府の招聘により来日したお雇い外国人の一人、エルヴィン・フォン・ベルツの日記です。
東京医学校(後の東京大学医学部)で内科教授として教鞭をとりながら、いく度かの帰国をはさんで滞日29年におよんだ日々について記されていて、原題は「黎明期日本における一ドイツ人医師の生活」といい、かれが日本人妻ハナとの間にもうけた長男トク・ベルツの編集によるものでした。
当時の西洋人から見た明治時代前期の日本の様子が詳細にわたって描写され、要人との交流の様子も描かれていて、とても面白いものです。また、温泉についても書かれていて、興味深いものでした。
以下に、『ベルツの日記』から世相や温泉についての記述をいくつか抜粋しておきます。
一八八〇年(明治13年)
八月十七日(伊香保)
過去二週間にはいろいろと不満もあったが、また満足も少なくなかった。なかんずく、自分の計画が伊香保で確実な基礎を見出したことがそれだ。まず源泉湯元への道路を手入れせねばならないし、つぎに蒸湯と榛名湖方面へ通じる正式の道路に取りかからねばならない。街路の取締りを実施する。藝者や賣笑婦たちを村はずれに追放して、その騒ぎをなくするようにせねばならない。
一八八九年(明治22年)
二月九日(東京)
東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ奉祝門・照明・行列の計画、だが滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ。
二月十一日(東京)
本日憲法発布。天皇の前には、やや左方に向かって諸大臣、高官が整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなければ立場をかえて現在将軍であったはずの徳川亀之助氏や、ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津候を認めた。珍妙な光景だ!………残念ながらこの祝日は、忌まわしい出来事で気分をそがれてしまった―――森文相の暗殺である。
二月十六日(東京)
………日本憲法が発表された。もともと国民に委ねられた自由なるものはほんの僅かである。しかしながら不思議なことに、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって悲憤慷慨したあの新聞がすべて満足の意を表しているのだ。
一八九〇年(明治23年)
十月十四日(東京)
第一期の議会は、十一月二十五日に招集せられる事になった。条約改正は、恐らくはその以前には完了するまい。
余に依り、草津近傍の白根山の火口に於いて発見せられた塩酸(鉄・明礬)泉は卓越せる医治効能を発揮する見込みである。余等は目下、該鉱泉を病院に於て試験して居るが、その結果は甚だ満足すべきものがある。
十月十五日(東京)
十三日、近藤氏の世話で草津に五千七百坪の土地と鉱泉を購った。
一九〇四年(明治37年)
九月二十一日(草津)
雨、雨、当地はもう、木の葉の色でねはっきりと秋だ。目もあやに彩られた山々は、まったく絵のようである。
九月二十三日(草津)
好晴のきょうの日を、白根活火山の初登攀に費した。草津から三時間の登りである。余は、四度火口の変化せるを見たのである。奇妙なのは此の廔々山形を改める噴火が、至近の距離に在る草津で、全然認知されないが或は殆んど気づかれないことである。固より噴火は、多くの暴風を、時々は雷雨を伴い起る故もあるのだ。
九月二十五日(草津ー東京)
六十粁の長道は、ひたすらに山地を貫いて走り、その絵の如き地形、人跡絶えたるカニヨン式の峡谷、山の急斜面には鬱蒼たる濶葉樹林茂り、丸い頂は一面に青天絨鵞を敷きたるが如き草原。世界の何処に出しても「魅するが如き美しさ」で通ろう。
ベルツは、明治時代前期に日本に招かれたお雇い外国人の一人で、ドイツ人医師です。1849年(嘉永2)南ドイツのビーティヒハイムに生まれ、1866年(慶応元)チュービンゲン大学で医学を修め、ライプツィヒ大学で臨床を学びました。
1876年(明治9)、日本政府の招聘により来日し、東京医学校(後の東京大学医学部)で内科教授として教鞭をとりました。
その頃、日本の医療上で大きな問題となっていた寄生虫病、恙虫病、脚気などの研究で業績を上げましたが、日本の温泉の医療における活用をすすめたことでも知られています。
1881年(明治14)、東海道御油宿(現在の愛知県豊川市御油町)戸田屋の荒井花子と結婚し、1男1女をもうけましたが、1905年(明治38)に帰国しました。そして、1913年(大正2)8月31日にドイツにおいて、64歳で亡くなっています。
1880年(明治13)に著した『日本鉱泉論』(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書の翻訳書)と日記や手紙を編集した『ベルツの日記』、そして、「ベルツ水」が有名です。
尚、愛知県豊川市の西明寺に墓碑・供養塔と水原秋桜子による顕彰句碑があります。
〇『ベルツの日記』とは?
1876年(明治9)、日本政府の招聘により来日したお雇い外国人の一人、エルヴィン・フォン・ベルツの日記です。
東京医学校(後の東京大学医学部)で内科教授として教鞭をとりながら、いく度かの帰国をはさんで滞日29年におよんだ日々について記されていて、原題は「黎明期日本における一ドイツ人医師の生活」といい、かれが日本人妻ハナとの間にもうけた長男トク・ベルツの編集によるものでした。
当時の西洋人から見た明治時代前期の日本の様子が詳細にわたって描写され、要人との交流の様子も描かれていて、とても面白いものです。また、温泉についても書かれていて、興味深いものでした。
以下に、『ベルツの日記』から世相や温泉についての記述をいくつか抜粋しておきます。
一八八〇年(明治13年)
八月十七日(伊香保)
過去二週間にはいろいろと不満もあったが、また満足も少なくなかった。なかんずく、自分の計画が伊香保で確実な基礎を見出したことがそれだ。まず源泉湯元への道路を手入れせねばならないし、つぎに蒸湯と榛名湖方面へ通じる正式の道路に取りかからねばならない。街路の取締りを実施する。藝者や賣笑婦たちを村はずれに追放して、その騒ぎをなくするようにせねばならない。
一八八九年(明治22年)
二月九日(東京)
東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ奉祝門・照明・行列の計画、だが滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ。
二月十一日(東京)
本日憲法発布。天皇の前には、やや左方に向かって諸大臣、高官が整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなければ立場をかえて現在将軍であったはずの徳川亀之助氏や、ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津候を認めた。珍妙な光景だ!………残念ながらこの祝日は、忌まわしい出来事で気分をそがれてしまった―――森文相の暗殺である。
二月十六日(東京)
………日本憲法が発表された。もともと国民に委ねられた自由なるものはほんの僅かである。しかしながら不思議なことに、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって悲憤慷慨したあの新聞がすべて満足の意を表しているのだ。
一八九〇年(明治23年)
十月十四日(東京)
第一期の議会は、十一月二十五日に招集せられる事になった。条約改正は、恐らくはその以前には完了するまい。
余に依り、草津近傍の白根山の火口に於いて発見せられた塩酸(鉄・明礬)泉は卓越せる医治効能を発揮する見込みである。余等は目下、該鉱泉を病院に於て試験して居るが、その結果は甚だ満足すべきものがある。
十月十五日(東京)
十三日、近藤氏の世話で草津に五千七百坪の土地と鉱泉を購った。
一九〇四年(明治37年)
九月二十一日(草津)
雨、雨、当地はもう、木の葉の色でねはっきりと秋だ。目もあやに彩られた山々は、まったく絵のようである。
九月二十三日(草津)
好晴のきょうの日を、白根活火山の初登攀に費した。草津から三時間の登りである。余は、四度火口の変化せるを見たのである。奇妙なのは此の廔々山形を改める噴火が、至近の距離に在る草津で、全然認知されないが或は殆んど気づかれないことである。固より噴火は、多くの暴風を、時々は雷雨を伴い起る故もあるのだ。
九月二十五日(草津ー東京)
六十粁の長道は、ひたすらに山地を貫いて走り、その絵の如き地形、人跡絶えたるカニヨン式の峡谷、山の急斜面には鬱蒼たる濶葉樹林茂り、丸い頂は一面に青天絨鵞を敷きたるが如き草原。世界の何処に出しても「魅するが如き美しさ」で通ろう。