大伴家持は、奈良時代の貴族・歌人(三十六歌仙の一人)で、718年(養老2)頃に、父大伴旅人、母丹比郎女の長男として生まれたとされています。
少年時代の727年(神亀4)頃、父に伴われ大宰府で生活し、730年(天平2)に帰京しました。738年(天平10)には内舎人となっていて、恭仁京を称える歌や故安積親王を傷む挽歌を詠み、745年(天平17)に従五位下に叙せられ、翌年7月越中守として赴任して、751年(天平勝宝3)少納言となって帰京しています。
その後、754年(天平勝宝6)に兵部少輔となり、この頃防人たちの歌を書き留め、さらに757年(天平勝宝9)には兵部大輔と昇進しましたが、大伴一族の命運にかかわる事件が続いて、758年(天平宝字2)因幡守に左降されました。
以後12年間に渡って、地方官を転々とした生活を送り、ようやく770年(宝亀1)6月に民部少輔となり、10月には21年ぶりで正五位下に昇叙したのです。
それからは、諸官を歴任して780年(宝亀11)参議に任ぜられて公卿に列したものの、政争に巻き込まれ紆余曲折を経て、783年(延暦2)には、中納言となりました。
翌年には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となりましたが、785年(延暦4年8月28日)に、68歳?で亡くなったのです。しかし、没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、首謀者とされて除名(806年(大同元)に復権)の上、子永主も隠岐に流されました。
『万葉集』の編者の一人とも言われ、収載された歌が最も多く、長歌46、短歌425、旋頭歌1首、合計472首に上ります。
〇大伴家持の代表的な歌
・「雨晴れて清く照りたる此の月夜又更にして雲なたなびき」
・「立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬あぶみ漬かすも」
・「ふり放けて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも
・「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」(百人一首)
・「うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しも独りし思へば」
・「燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く」
・「春の野にあさる雉の妻恋ひに己があたりを人に知れつつ」
・「卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴きわたる」
・「妹が袖われ枕かむ河の瀬に霧たちわたれ小夜ふけぬとに」
・「沫雪の庭に降りしき寒き夜を手枕まかず一人かも寝む」
・「あしひきの山の木末の寄生とりて挿頭しつらくは千年寿くとぞ」
・「石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて小鷹狩だにせずや別れむ」
・「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟榜ぎ隠る見ゆ」