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 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、小説家細井和喜蔵が亡くなった日です。
 細井和喜蔵は、明治時代後期の1897年(明治30)5月9日に、京都府与謝郡加悦町(現在の与謝野町)で、細井市蔵とりきの長男として生まれましたが、父は出生前に離縁され、母は6歳のときに自殺し、祖母に育てられました。
 しかし、13歳の尋常小学校5年の時に祖母を亡くして中退し、地元の機屋の小僧から始め、職を転々として働き、1916年(大正5)には大阪へ出ることになります。
 そこで、鐘淵紡績などに勤めながら紡績学校に通い、このころ友愛会に加盟して、労働運動に参加しました。
 1920年(大正9)には上京して、東京モスリン亀戸工場に入り、労働争議に参加する中で知り合った、同じ職場の女工堀としと1922年(大正11)に結婚しましたが、会社は退職することになります。
 妻に生計を支えられながら、翌年には、陀田勘助らと詩誌『悍馬』を創刊、紡績工場の実態をルポルタージュにした代表作「女工哀史」の執筆に取り組み、雑誌『改造』に発表し始めました。1924年(大正13)には脱稿し、翌年改造社から出版されましたが、刊行の翌月にあたる1925年(大正14)8月18日に、急性腹膜炎にて、29歳の若さで死去したのです。
 その後、自伝的小説「工場」「奴隷」が刊行され、戦後には、『細井和喜蔵全集』全4巻も出版されました。

〇『女工哀史』とは?
 細井和喜蔵著のルポルタージュで、大正時代の1925年(大正14)7月に、改造社から刊行されました。京都の貧農出身の著者が、15年間紡績工場の下級職工として働いた経験と見聞に基づいて書かれています。
 女工募集の裏表(第3章)、雇傭契約制度(第4章)、労働条件(第5章)、工場に於ける女工の虐使(第6章)、寄宿舎生活(第7・8章)、「福利増進施設」(第10章)などの労働・福利厚生の実態と、女工の心理(第16章)や生理・病理(第17章)を詳細に描き、巻末に「女工小唄」も採譜収録されていました。
 刊行後版を重ねて多くの人々に読まれ、女工の過酷な労働の代名詞としても、この書名が使われるようにもなったのです。

☆『女工哀史』(抜粋)

 自序

 婿養子に来てゐた父が私の生まれぬ前に帰って了ひ、母は七歳のをり水死を遂げ、たった一人の祖母がまた十三歳のとき亡くなったので私は尋常五年限り小学校を止さなければならなかった。そして十三の春、機家の小僧となつて自活生活に入ったのを振り出しに、大正十二年まで約十五年間、紡績工場の下級な職工をしてゐた自分を中心として、虐げられ蔑しまれ乍らも日々「愛の衣」を織りなして人類をあたゝかく育んでぬる日本三百萬の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏つてぬるものなれば何びともこれを一讀する義務がある。そして自からの體を破壊に陥し入れる犠牲を甘受しつゝ、社會の礎となつて黙々と愛の生産にいそしんでぬる「人類の母」――彼女達女工に感謝しなければならない。
 私がこの記録を書かうと思つたのは餘程後年になつてからのことであつて、初めの程は唯だ漫然と職工生活を通って来たに過ぎない。言葉をかへて言へば社會制度や工場組織や人生に対して何の批評限も有たぬ、殆ど思想のない、一個の平凡な奴隷として多勢の仲間と一緒に働いてゐたのであつた。鐡工部のボール盤で左の小指を一本めちゃくちゃにして了つたとき、三文の手當金も貰わぬのみかあべこべにぼんやりしてゐるからだとて叱り飛ばされた事を、當然と肯定して何の恨みにも思はなかつた。
 その圧制な工場制度に對して少しの疑問をも懐かずに、眼をつぶつて通って来た狭隘な見聞と、浅薄な體験によつて綴ったものが即ちこの記録である。私は大工場生活に入つた初めから、これを書くために根ほり端ほり材料を蒐めて紡績工場を研究したのでは決して無い。然るに、それですらなほこの通りな始末だから、事實はもつともつと深刻を極めたものと思惟されるのである。

(後略)

第五 労働条件 十三

 凡そ紡績工場くらい長時間労働を強しる処はない。大体に於ては十二時間制が原則となつて居るが先ずこれを二期に分けて考えねばならぬ。
 第一期は工場法発布以前であつて、此の頃は全國の工場殆ど紡績十二時間織布十四時間であつた。而して第二期に当たる工場法後から今日へかけては、紡績十一時間、織布十二時間というのが最も多数を占める。

(中略)

 東京モスリンでは十一時間制が原則となつて居り、織部は昼業専門だと、公表している。而し乍ら實際では十二時間制の上に夜業がある。だから凡ての労働事情は官省の調査や、第三者の統計などで決して真相が判るものではない。しからば同社は十一時間制を公表して如何なる方法によつて十二時間働かせているかと言えば、後の一時間は「残業」という名目であり、夜業は自由にその希望者のみにやらせるのだと言ひ逃れてゐる。一年三百有余日残業するところがはたして欧米にあるだろうか?

(後略)

第十七 生理並に病理的諸現象 六十二

(前略)

 女工[9]の子供は實によく死ぬる。即ち千人中三百二十人はその年中に死亡して了ふのであつて、一般死亡率の二倍といふ高率になつてゐるのだ。独逸[21]に於ける富裕階級の乳児死亡率が出産百に對し僅々八であった抔に比較して、貧兒[22]のあはれを痛切に感じる。此の如く資本主義[23]の無情は罪なき幼な兒にまでふりかゝらねばならなかつた。

(中略)

 それからまた女工には流産や死産が甚だ多い。これは説明するまでもなく母性保護の行き届かざるに依るのであつて、最少限度を示した工場法の規定も、労働組合が活動して職工自身厳重な監督機関とならざる限りは到底實行を期し難い。
 流産および死産は農村に於て總妊娠中の二割、女教員が三割以上だと言われてゐる。これより推定すれば女工は四割以上にも當たるだらう。
 女工總数三百人中有夫通勤女工八十人を出でぬ小工場で、五年間私がゐた間に大おりといふのが六人あつた。殊に織布部の某女工の如きは體が全く動けなくなるまで工場へ出勤した為、作業中に機間へぶつ倒れて機械から仕掛品から床面まで、あたり一面血の海と化して了つた。こんな鹽梅だから人に知れぬ程度の流産がどれ丈け多いことか。
 紡績工の兒童には又発育不良、醜兒、低能兒、白痴、畸形兒、盲唖などが可成り多い。私の歩いた大小工場で其の保育場を見廻はるに、何れへ行つても強く賢こさうな美しい兒供は一人としてゐず、胎毒[33]で瘡蓋だらけな頭のでつかい醜兒ばかりであつた。さうして社宅から出る學齢兒童中には屹度低能兒が数人まじつて居り、其のほか通學さえも出来ぬ白痴や盲唖がゐるのだつた。現にいま本稿を書く為生活を支へている小工場中にでも、跛で白痴なる少年一人、唖の少女一人、生後一ヶ年にて體は生後二ヶ月にも足らぬ大きさしかなく、頭は大人より多きいところの福助一人、低能兒が數人いるのである。
 普通統計によれば畸形兒や白痴は千人に對して二人くらひしかゐない。しかし紡績工の兒童は尠くともその三倍以上だと推断することができる。

附録 女工小唄

 篭の鳥より監獄よりも 寄宿住いはなお辛い。
 工場は地獄で主任が鬼で 迴る運転火の車。
 糸は切れ役ゆしゃつなぎ役 そばの部長さん睨み役。
 定則出来なきや組長さんの いやなお顔も身にゃならぬ。
 わしはいにますあの家さして いやな煙突あとに見て。
 偉そうにするお前もわしも 同じ會社の金もらう。
 偉そうにする主任じゃとても もとは枡目のくそ男工。
 世話婦々々々と威張って居れど もとを糺せば柿のたね。
 此処を抜けだす翼がほしや せめてむこうの陸までも。
 主任部長と威張って居れど 工務の前にゃ頭ない。
 男工串にさして五つが五厘 女工一人が二十五銭。
 男もつならインヂ(エンヂン)か丸場 枡目男工は金が無い。
 會社男工の寝言をきけば 早く勘定来い金が無い。
 主とわたしはリング(輪具の精紡機)の糸よ つなぎやすいが切れやすい。
 主とわたしや二十手(二十番手)の糸よ つなぎやすいが切れやすい。
 余所の會社は仏か神か こゝの會社は鬼か蛇か。
 こゝの會社は女郎屋と同じ 顔で飯食ふ女郎ばかり。
 親のない子は泣き泣き育つ 親は草葉のかげでなく。
 うちさ行き度いあの山越えて 行けば妹もある親もある。
 會社づとめは監獄づとめ 金の鎖が無いばかり
 男工なにする機械のかげで 破れたシャツの虱とる。
 女工々々と軽蔑するな 女工は會社の千両箱。
 紡績職工が人間なれば 電信柱に花が咲く。
 女工々々と見さげてくれるな 国へ帰れば箱娘。
 嬉し涙を茶碗にうけて 親に酒だと飲ませたい。
 娘いまかと言はれた時にゃ わが見こゝろは血の涙。
 国を発つときゃ涙で出たが 今じゃ故郷の風もいや。
 いつも工場長の話を聴けば 貯金々々と時計のよだ。
 工場しまつて戻れば寄宿 蛙なく夜の里おもひ。
 早くねんあけ二親様に つらい工場の物語り。
 會社男工に目をくれたなら 末は篠巻まるはだか。
 こんな會社へ来るのぢゃないが 知らぬ募集人にだまされて。
 此処の會社の規則を見れば 千に一つの徒が無い。
 うちが貧乏で十二の時に 売られて来ました此の會社

              『女工哀史』より