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 今日は、江戸時代後期の1808年(文化5)に、フェートン号事件の起きた日ですが、新暦では10月4日となります。
 この事件は、鎖国政策をとっていた日本の長崎港で勃発したイギリス軍艦による狼藉事件でした。ナポレオン戦争によりフランスに併合されていたオランダとイギリスは交戦国の関係にあり、東インド総督ミントーの政策を受けて、イギリス軍艦フェートン号が、偽ってオランダ国旗を掲げて長崎港へ入港しました。そして、オランダ商館員2名を逮捕し、長崎奉行に飲料水と薪、食糧などを供給するよう要求したのです。当時、長崎警固にあたっていた佐賀藩兵は実質100余名にすぎず、まともに対処することができず、翌日に長崎奉行は要求を受け入れて、フェートン号は退去したのです。
 その責任を取って、長崎奉行松平康英は切腹自殺し、幕府に大きな衝撃を与えました。
 その後、蘭学者で奉行所鉄砲方高島秋帆らは,この事件を通じて開国の必要性を上申しましたが容れられず、逆に、江戸幕府は1825年(文政8) に「異国船打払令」を出して鎖国と海防の強化に力を注ぐ契機となったのです。

〇「異国船打払令」とは?
 江戸幕府が、江戸時代後期に1825年(文政8)に出した外国船追放令で、理由に関係なく外国船を打ち払えと命じたもので、「無二念打払令」または「文政の打払令」ともいいます。江戸幕府は、1806年(文化3)に漂流船には薪水を給与すると同時に、江戸湾ならびに全国の沿岸の警備を強化することを諸大名に命じていました。しかし、1808年(文化5)にフェートン号事件が起こり、日本近海にイギリスとアメリカの捕鯨船が頻繁に出没し始め、さらに1818年 (文政元) 、イギリス人 G.ゴルドンが直接浦賀に来航して貿易を要求したり、1824年(文政7)には常陸、薩摩などで外国船員が上陸するという事態も起こったのです。そこで、1825年(文政8)に、この法令によって、日本の沿岸に近づく外国船に対し、無差別に砲撃を加えて撃退することを命じました。そして、1837年(天保8)にアメリカ船モリソン号が浦賀に入港した際に砲撃を加えたりしたのです。しかし、1842年(天保13)にアヘン戦争で清がイギリスに敗れて開国を強制させられた情報が伝わると、急いで水野忠邦らがこれについて評議した末、老中真田幸貫の意見を容れて、同年にこれを廃止し、.元の薪水供給令に戻りました。
 以下に、全文を掲載しておきます。

 文政八酉年二月十八日
異国船渡来の節取計方、前々より数度仰出されこれ有り、おろしや船の儀に付いては、文化の度改めて相触れ候次第も候処、いきりすの船、先年長崎において狼籍に及び、近年は所々へ小船にて乗寄せ、薪水食糧を乞ひ、去年に至り候ては猥りに上陸致し、或いは迴船の米穀島方の野牛等奪取候段、追々横行の振舞、其上邪宗門に勧入れ候致方も相聞え、旁捨置れ難き事に候。一体いきりすに限らず、南蛮・西洋の儀は御制禁邪教の国に候間、以来何れの浦方におゐても異国船乗寄候を見請候はゞ、其所に有合候人夫を以て有無に及ばず一図に打払い、迯延候はゞ追船等差出に及ばず、其侭に差置き、若し押して上陸致し候はば、搦捕又は打留候ても苦しからず候。本船近寄り居り候はば、打潰し候共、是又時宜次第取計らるべき旨、浦方末々の者迄申含み、追て其段相届け候様、改て仰出され候間、其意を得、浦浦手立の儀は土地相応、実用専一に心掛け、手重過ぎ申さざる様、又怠慢もこれ無く、永続致すべき便宜を考へ、銘々存分に申付けらるべく候。
尤唐・朝鮮・琉球などは船形人物も相分るべく候得共、阿蘭陀船は見分けも相成かね申すべく、右等の船万一見損い、打誤り候共、御察度は之有間敷候間、二念無く打払いを心掛け、図を失わざる様取計らい候処、専用の事に候条、油断無く申付けらるべく候

『御触書天保集成』より