木下杢太郎の本名は、太田政雄といい、1885年(明治18)8月1日に、静岡県賀茂郡湯川村(現在の静岡県伊東市)に生まれました。1898年(明治31)、上京して獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)へ入学し、卒業後は第一高等学校から、東京帝国大学医科大学へ進みました。
在学中に、与謝野鉄幹の主宰する新詩社の同人となり、1907年(明治40)には、与謝野鉄幹に連れられて、北原白秋、吉井勇、平野万里と共に、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行(「五足の靴」の旅)をし、キリシタン関連遺跡等を巡って、南蛮文化の影響を受けたのです。
東京大学医学部卒業後、医学研究に従事し、欧米留学をして、医学博士となりました。帰国後は、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)教授、東北大学医学部教授を経て、1937年(昭和12)には、東京帝国大学医学部教授となります。
文学の方では、最初は新詩社に加わり、『明星』『スバル』などに、耽美的な作品を発表しましたが、1908年(明治41)に脱退し、北原白秋、吉井勇らと、『パンの会』を立ち上げました。その後、森鴎外の研究にも励み、『鴎外全集』(岩波書店)の主編集者を務めたりしたのです。
代表作は、小説集「唐草表紙」、詩集「食後の唄」、戯曲「南蛮寺門前」「和泉屋染物店」などですが、木下作品には「異国情調」と評されるものが多くあります。その底流には、若き日の「五足の靴」の旅で天草を旅した影響があるといわれています。
このように、医学と文学の両分野で活躍しましたが、1945年(昭和20)10月15日に、胃癌のために61歳で没しました。
尚、静岡県伊東市の生家は、「伊東市立杢太郎記念館」として、各種資料と共に公開されています。
〇「五足の靴」とは?
明治時代後期の1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行をした、5人(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)による紀行文です。
その年の「東京二六新聞」に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載されました。
いろいろな所に立ち寄っていますが、特に、天草下島西海岸の富岡より大江まで約32劼鯏綿發嚢圓部分が印象的です。一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せました。
その後、これら若き詩人・歌人の開眼に大きな役割を果たしたと言われ、白秋の『邪宗門』、『天草雑歌』、杢太郎の『天草組』は、この旅に想を得て誕生した詩です。
尚、新聞連載時の執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、北原白秋は「H生」、木下杢太郎は「M生」、吉井勇は「I生」、平野万里は「B生」の仮名を用いています。
以下に、この旅で想を得た木下杢太郎の詩「はためき」を載せておきます。
☆木下杢太郎の詩「はためき」
はためくは何ぞ
あな、おぞ
渡海船今し出づとて
帆捲くなり
唐津の殿の
いとわかきあえかの姫
髪に塗る伽羅を買ふべく