これは、長編小説で、明治時代前期の1887年(明治20)に第1篇、翌年に第2篇が金港堂から刊行され、1889年(明治22)に、第3篇は『都の花』に連載されました。
主人公の知識青年内海文三とその従姉妹のお勢、友人の本田の三人の姿を中心に、明治時代の文明や風潮を批判的にとらえ、言文一致体で描写したもので、近代写実小説の始まりとされています。
〇「言文一致体」とは?
書きことば(文語)と話しことば(口語)とを一致させようとすることで、いわゆる文語は主に平安時代までに完成し、中世以降は、だんだんと口語との乖離が大きくなっていたのです。
そこで、明治時代になると文学者の中から、文語と口語を一致させようという「言文一致運動」が起きました。
その始まりは、坪内逍遥の影響を受けた二葉亭四迷著の長編小説『浮雲』からと言われているのです。
以下に二葉亭四迷著小説『浮雲』第一篇の冒頭部分を載せておきます。
☆二葉亭四迷著小説『浮雲』第一篇の冒頭部分
「第一編
第一回 アアラ怪しの人の挙動ふるまい
千早振ちはやふる神無月かみなづきももはや跡二日ふつかの余波なごりとなッた二十八日の午後三時頃に、神田見附かんだみつけの内より、塗渡とわたる蟻あり、散る蜘蛛くもの子とうようよぞよぞよ沸出わきいでて来るのは、孰いずれも顋おとがいを気にし給たまう方々。しかし熟々つらつら見て篤とくと点※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)てんけんすると、これにも種々さまざま種類のあるもので、まず髭ひげから書立てれば、口髭、頬髯ほおひげ、顋あごの鬚ひげ、暴やけに興起おやした拿破崙髭ナポレオンひげに、狆チンの口めいた比斯馬克髭ビスマルクひげ、そのほか矮鶏髭ちゃぼひげ、貉髭むじなひげ、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡うすくもいろいろに生分はえわかる。髭に続いて差ちがいのあるのは服飾みなり。白木屋しろきや仕込みの黒物くろいものずくめには仏蘭西フランス皮の靴くつの配偶めおとはありうち、これを召す方様かたさまの鼻毛は延びて蜻蛉とんぼをも釣つるべしという。これより降くだっては、背皺せじわよると枕詞まくらことばの付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこで踵かかとにお飾を絶たやさぬところから泥どろに尾を曳ひく亀甲洋袴かめのこズボン、いずれも釣つるしんぼうの苦患くげんを今に脱せぬ貌付かおつき。デモ持主は得意なもので、髭あり服あり我また奚なにをかもとめんと済した顔色がんしょくで、火をくれた木頭もくずと反身そっくりかえッてお帰り遊ばす、イヤお羨うらやましいことだ。その後あとより続いて出てお出でなさるは孰いずれも胡麻塩ごましお頭、弓と曲げても張の弱い腰に無残や空から弁当を振垂ぶらさげてヨタヨタものでお帰りなさる。さては老朽してもさすがはまだ職に堪たえるものか、しかし日本服でも勤められるお手軽なお身の上、さりとはまたお気の毒な。
途上人影ひとけの稀まれに成った頃、同じ見附の内より両人ふたりの少年わかものが話しながら出て参った。一人は年齢ねんぱい二十二三の男、顔色は蒼味あおみ七分に土気三分、どうも宜よろしくないが、秀ひいでた眉まゆに儼然きっとした眼付で、ズーと押徹おしとおった鼻筋、唯ただ惜おしいかな口元が些ちと尋常でないばかり。しかし締しまりはよさそうゆえ、絵草紙屋の前に立っても、パックリ開あくなどという気遣きづかいは有るまいが、とにかく顋が尖とがって頬骨が露あらわれ、非道ひどく※(「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62)やつれている故せいか顔の造作がとげとげしていて、愛嬌気あいきょうげといったら微塵みじんもなし。醜くはないが何処どこともなくケンがある。背せいはスラリとしているばかりで左而已さのみ高いという程でもないが、痩肉やせじしゆえ、半鐘なんとやらという人聞の悪い渾名あだなに縁が有りそうで、年数物ながら摺畳皺たたみじわの存じた霜降しもふり「スコッチ」の服を身に纏まとッて、組紐くみひもを盤帯はちまきにした帽檐広つばびろな黒羅紗ラシャの帽子を戴いただいてい、今一人は、前の男より二ツ三ツ兄らしく、中肉中背で色白の丸顔、口元の尋常な所から眼付のパッチリとした所は仲々の好男子ながら、顔立がひねてこせこせしているので、何となく品格のない男。黒羅紗の半「フロックコート」に同じ色の「チョッキ」、洋袴は何か乙な縞しま羅紗で、リュウとした衣裳附いしょうづけ、縁ふちの巻上ッた釜底形かまぞこがたの黒の帽子を眉深まぶかに冠かぶり、左の手を隠袋かくしへ差入れ、右の手で細々とした杖つえを玩物おもちゃにしながら、高い男に向い、………」