ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年06月

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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、二葉亭四迷著の小説『浮雲』の第一篇が刊行された日です。
 これは、長編小説で、明治時代前期の1887年(明治20)に第1篇、翌年に第2篇が金港堂から刊行され、1889年(明治22)に、第3篇は『都の花』に連載されました。
 主人公の知識青年内海文三とその従姉妹のお勢、友人の本田の三人の姿を中心に、明治時代の文明や風潮を批判的にとらえ、言文一致体で描写したもので、近代写実小説の始まりとされています。

〇「言文一致体」とは?
 書きことば(文語)と話しことば(口語)とを一致させようとすることで、いわゆる文語は主に平安時代までに完成し、中世以降は、だんだんと口語との乖離が大きくなっていたのです。
 そこで、明治時代になると文学者の中から、文語と口語を一致させようという「言文一致運動」が起きました。
 その始まりは、坪内逍遥の影響を受けた二葉亭四迷著の長編小説『浮雲』からと言われているのです。
 以下に二葉亭四迷著小説『浮雲』第一篇の冒頭部分を載せておきます。

☆二葉亭四迷著小説『浮雲』第一篇の冒頭部分

「第一編
  第一回 アアラ怪しの人の挙動ふるまい

 千早振ちはやふる神無月かみなづきももはや跡二日ふつかの余波なごりとなッた二十八日の午後三時頃に、神田見附かんだみつけの内より、塗渡とわたる蟻あり、散る蜘蛛くもの子とうようよぞよぞよ沸出わきいでて来るのは、孰いずれも顋おとがいを気にし給たまう方々。しかし熟々つらつら見て篤とくと点※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)てんけんすると、これにも種々さまざま種類のあるもので、まず髭ひげから書立てれば、口髭、頬髯ほおひげ、顋あごの鬚ひげ、暴やけに興起おやした拿破崙髭ナポレオンひげに、狆チンの口めいた比斯馬克髭ビスマルクひげ、そのほか矮鶏髭ちゃぼひげ、貉髭むじなひげ、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡うすくもいろいろに生分はえわかる。髭に続いて差ちがいのあるのは服飾みなり。白木屋しろきや仕込みの黒物くろいものずくめには仏蘭西フランス皮の靴くつの配偶めおとはありうち、これを召す方様かたさまの鼻毛は延びて蜻蛉とんぼをも釣つるべしという。これより降くだっては、背皺せじわよると枕詞まくらことばの付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこで踵かかとにお飾を絶たやさぬところから泥どろに尾を曳ひく亀甲洋袴かめのこズボン、いずれも釣つるしんぼうの苦患くげんを今に脱せぬ貌付かおつき。デモ持主は得意なもので、髭あり服あり我また奚なにをかもとめんと済した顔色がんしょくで、火をくれた木頭もくずと反身そっくりかえッてお帰り遊ばす、イヤお羨うらやましいことだ。その後あとより続いて出てお出でなさるは孰いずれも胡麻塩ごましお頭、弓と曲げても張の弱い腰に無残や空から弁当を振垂ぶらさげてヨタヨタものでお帰りなさる。さては老朽してもさすがはまだ職に堪たえるものか、しかし日本服でも勤められるお手軽なお身の上、さりとはまたお気の毒な。
 途上人影ひとけの稀まれに成った頃、同じ見附の内より両人ふたりの少年わかものが話しながら出て参った。一人は年齢ねんぱい二十二三の男、顔色は蒼味あおみ七分に土気三分、どうも宜よろしくないが、秀ひいでた眉まゆに儼然きっとした眼付で、ズーと押徹おしとおった鼻筋、唯ただ惜おしいかな口元が些ちと尋常でないばかり。しかし締しまりはよさそうゆえ、絵草紙屋の前に立っても、パックリ開あくなどという気遣きづかいは有るまいが、とにかく顋が尖とがって頬骨が露あらわれ、非道ひどく※(「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62)やつれている故せいか顔の造作がとげとげしていて、愛嬌気あいきょうげといったら微塵みじんもなし。醜くはないが何処どこともなくケンがある。背せいはスラリとしているばかりで左而已さのみ高いという程でもないが、痩肉やせじしゆえ、半鐘なんとやらという人聞の悪い渾名あだなに縁が有りそうで、年数物ながら摺畳皺たたみじわの存じた霜降しもふり「スコッチ」の服を身に纏まとッて、組紐くみひもを盤帯はちまきにした帽檐広つばびろな黒羅紗ラシャの帽子を戴いただいてい、今一人は、前の男より二ツ三ツ兄らしく、中肉中背で色白の丸顔、口元の尋常な所から眼付のパッチリとした所は仲々の好男子ながら、顔立がひねてこせこせしているので、何となく品格のない男。黒羅紗の半「フロックコート」に同じ色の「チョッキ」、洋袴は何か乙な縞しま羅紗で、リュウとした衣裳附いしょうづけ、縁ふちの巻上ッた釜底形かまぞこがたの黒の帽子を眉深まぶかに冠かぶり、左の手を隠袋かくしへ差入れ、右の手で細々とした杖つえを玩物おもちゃにしながら、高い男に向い、………」
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 今日は、小説家太宰治が1909年(明治42)に生まれた日であると共に、1948年(昭和23)に入水自殺した遺体が発見された日で、桜桃忌と呼ばれています。 
 太宰治は、昭和時代に活躍した小説家で、本名は津島修治といい、1909年(明治42)6月19日に青森県金木村(現在の五所川原市金木町)の県下有数の大地主対馬家の六男として生まれました。
 県立青森中学校(現在の県立青森高等学校)から、官立弘前高等学校に学びましたが、高校在学中から、プロレタリア文学に興味を持って、同人誌に作品を掲載することになります。
 卒業後は、東京帝国大学文学部仏文学科に入学しましたが、あまり授業にも出ず、井伏鱒二に弟子入りし、在学中に、人妻と入水自殺を図ったりして、大学は辞めることになりました。
 その後、同人誌『海豹』に参加し、1935年(昭和10)、「逆行」を『文藝』に発表して、第1回芥川賞候補となって注目されます。
 それからも、自殺未遂したりしますが、1939年(昭和14)石原美知子と結婚して安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編小説を発表しました。
 戦時下も『津軽』『お伽草紙』など創作活動を続け、戦後は、『ヴィヨンの妻』、『斜陽』、『人間失格』などを書いて無頼派などと呼ばれて脚光を浴びますが、1948年(昭和23)6月13日に40歳の若さで、玉川上水にて入水自殺しました。その遺体は、6月19日に発見され、その日が桜桃忌と呼ばれています。

〇代表的な作品と初出
 富嶽百景 『文体』1939年2月号、3月号
 黄金風景 『國民新聞』1939年3月2日、3月3日
 女生徒 『文學界』1939年4月号
 葉桜と魔笛 『新潮』1939年6月号
 八十八夜 『新潮』1939年8月号
 畜犬談 『文学者』1939年10月号
 皮膚と心 『文學界』1939年11月号
 俗天使 『新潮』1940年1月号
 鷗 『知性』1940年1月号
 女の決闘 『月刊文章』1940年1月号〜6月号
 駈込み訴へ 『中央公論』1940年2月号
 走れメロス 『新潮』1940年5月号
 古典風 『知性』1940年6月号
 乞食学生 『若草』1940年7月号〜12月号
 清貧譚 『新潮』1941年1月号
 みみずく通信 『知性』1941年1月号
 佐渡 『公論』1941年1月号
 千代女 『改造』1941年6月号
 新ハムレット 書き下ろし 『新ハムレット』(文藝春秋、1941年7月)
 誰 『知性』1941年12月号
 恥 『婦人画報』1942年1月号
 十二月八日 『婦人公論』1942年2月号
 律子と貞子 『若草』1942年2月号
 水仙 『改造』1942年5月号
 正義と微笑 書き下ろし 『正義と微笑』(錦城出版社、1942年6月)
 黄村先生言行録 『文學界』1943年1月号
 右大臣実朝 書き下ろし 『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年9月)
 不審庵 『文藝世紀』1943年10月号
 花吹雪 書き下ろし 『佳日』(肇書房)
 佳日 『改造』1944年1月号
 散華 『新若人』1944年3月号
 津軽 書き下ろし 『津軽』(小山書店、1944年11月)
 ほかは書き下ろし 『新釈諸国噺』(生活社、1945年1月)
 竹青 『文藝』1945年4月号
 惜別 書き下ろし 『惜別』(朝日新聞社、1945年9月)
 お伽草紙 書き下ろし 『お伽草紙』(筑摩書房、1945年10月)
 冬の花火 『展望』1946年6月号
 春の枯葉 『人間』1946年9月号
 雀 『思潮』1946年9月号 『冬の花火』(中央公論社)
 親友交歓 『新潮』1946年12月号
 男女同権 『改造』1946年12月号
 トカトントン 『群像』1947年1月号
 メリイクリスマス 『中央公論』1947年1月号
 ヴィヨンの妻 『展望』1947年3月号
 女神 『日本小説』1947年5月号
 フォスフォレッスセンス 『日本小説』1947年7月号
 眉山 『小説新潮』1948年3月号
 斜陽 『新潮』1947年7月号〜10月号
 如是我聞 『新潮』1948年3月号、5月号〜7月号
 人間失格 『展望』1948年6月号〜8月号
 グッド・バイ 『朝日新聞』1948年6月21日

☆太宰治著小説「津軽」の冒頭部分
「 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。………」
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 今日は、エドワード・S・モースが、1838年に生まれた日であり、1877年(明治10)に初めて来日した日でもあります。
 モースは、明治時代前期に日本に招かれたお雇い外国人の一人で、アメリカ人動物学者ですが、大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくったことで知られています。
 1838年(天保9)6月18日に、アメリカ合衆国メイン州ポートランドで生まれ、ハーバード大学のJ.L.R.アガシの助手として動物学を学び、腕足類の研究に携わりました。
 1867年(慶応3)から、ピーボディ科学アカデミーの所員として研究を続け、1871年(明治4)から3年ほどボードウィン大学教授として教鞭をとったのです。
 1877年(明治10)6月18日に、39歳で腕足類研究のため初来日し、翌日横浜から東京へ向かう汽車の車窓から大森貝塚を発見しました。
 その後、請われて東京大学理学部動物学生理学教授に就任、大森貝塚の発掘、近代動物学とダーウィンの進化論の紹介に努め、教育施設の充実のためにも活躍したのです。そして、1879年(明治12)に東京大学を退職し、9月3日に離日しました。
 1882年(明治15)に44歳で再来日し、日本陶器の収集に専念、日本各地で収集した陶器はモース・コレクションとしてボストン美術館に収蔵されています。
 帰国後はピーボディー博物館長、同名誉館長を務めましたが、1925年(大正14)12月20日に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラムにおいて、87歳で死去しました。
 日本に関する主な著書としては、『大森貝墟古物編』(1879年)、『日本のすまい・内と外』(1885年)、『モース日本陶器コレクション』(1901年)、『日本その日その日』(1917年)があります。

〇「大森貝塚」とは?
 東京都品川区・大田区にまたがる縄文時代後期~晩期の貝塚です。アメリカの動物学者エドワード・S・モースが1877年(明治10)、横浜から東京へ向かう汽車の車窓から発見し、発掘が行われ、1879年(明治12)には日本初の発掘報告書が出版されました。この発掘は、日本初の学術的なものとして、大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。
 これらのことから、 1955年(昭和30)に国の史跡に指定され、1986年(昭和61)には追加指定を受けています。出土物は、各種の貝殻をはじめ、縄文式土器、土偶、石斧、石鏃、人骨片、鹿やクジラの骨などで、「東京大学総合研究資料館」に保存され、1975年(昭和50)に、一括して大森貝塚出土品として国の重要文化財の指定を受けました。
 その後、1984年(昭和59)と1993年(平成5)に、大森貝塚遺跡庭園整備などの発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかっています。この時の発掘資料の一部は、「品川歴史館」に展示されていますし、品川区大井六丁目と大田区山王一丁目には記念碑が建てられ、大森貝塚遺跡庭園も整備され、大森貝塚貝層断面やモース博士像もあります。
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 今日は、明治時代初期の1869年(明治2)に薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が願い出た版籍奉還を許可し、藩主を知藩事に任命した日(新暦では7月25日)です。
 同年の1月20日(新暦では3月20日)に、新政府樹立を主導した薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が上表(建白書)を提出しており、それを明治天皇が認めるという形で行われ、他藩もそれに追従しました。
 これによって、明治政府による中央集権化が進むことになります。

〇版籍奉還とは?
 幕末明治維新期の1869年(明治2)に実施された、明治政府による中央集権化の政治改革です。まず、長州・薩摩・土佐・肥前の4藩主が、この年の1月20日(新暦では3月20日)に、天皇に対して「長薩土肥四藩上表」(建白書)を行って、封土・領民返還の先駆けとなりました。その後、それにならって、諸藩主が土地(版)と人民(籍)を朝廷に還納し、6月17日(新暦では7月25日)には奉還聴許に決するとともに、旧藩主をそのまま政府の任命する知藩事としたのです。藩主の封建的諸特権はほぼ従来どおりで、形式的な面もありましたが、2年後の廃藩置県への第一歩となりました。
 「長薩土肥四藩上表」を原文と訳文で掲載しておきます。

☆「長薩土肥四藩上表」(縦書きを横書きにし、句読点を付してあります)
臣某等頓首再拝謹テ案スルニ、朝廷一日モ失フ可ラサルモノハ大体ナリ。一日モ仮ス可ラサル者ハ大権ナリ。天祖肇テ国を開キ基ヲ建玉ヒシヨリ、皇統一系、万世無窮、普天率土、其ノ有ニ非サルハナク、其臣ニ非サルハナシ。是レ大体トス。且ツ与ヘ且ツ奪ヒ、爵禄以テ下ヲ維持シ、尺土モ私ニ有スルコト能はす、一民モ私ニ攘ムコト能ハス。是大権トス。在昔朝廷海内ヲ統馭スル一ニコレニヨリ、聖躬之ヲ親ラス。故ニ名実並ヒ立チテ、天下無事ナリ。中葉以降、綱維一タヒ弛ヒ、権ヲ弄シ、柄ヲ争フ者、踵ヲ朝廷ニ接シ、ソノ民ヲ私シ、ソノ土ヲ攘ムモノ、天下ニ半シ、遂ニ搏噬攘奪ノ勢成リ、朝廷守ル所ノ体ナク、トル所ノ権ナクシテ、是レヲ制馭スルコト能ハス。姦雄タカヒニ乗シ、弱ノ肉ハ強ノ食トナリ、ソノ大ナル者ハ十数州ヲ併セ、ソノ小ナル者ハ猶士ヲ養フ数千。所謂幕府ナル者ノ如キハ、土地人民擅ニソノ私スル所ニ分チ、以テソノ勢権ヲ扶植ス。是ニオイテカ、朝廷徒ニ虚器ヲ擁シ、ソノ視息ヲ窺ヒテ、喜戚ヲナスニ至ル。横流ノ極ミ、滔天回ラサルモノ、茲ニ六百有余年。然レトモソノ間往々天子ノ名爵ヲ假リテ、ソノ土地人民ヲ私スルノ跡ヲ蔽フ。是固ヨリ君臣ノ大義上下ノ名分、万古不抜ノモノ有ニ由ナリ。方今大政新ニ復し、万機之ヲ親ラス、実ニ千歳ノ一機、其名アツテ其実ナカル可ラス。其実ヲ挙ルハ大義ヲ明ニシ名分ヲ正スヨリ先ナルハナシ。嚮ニ徳川氏ニ起コル、古家旧族天下ニ半ス、依テ家ヲ興スモノ亦多シ、而シテ其土地人民、之ヲ朝廷ニ受ルト否トヲ問ハス、因襲ノ久シキ以テ今日ニ至ル。世或ハ謂ラク、是祖先鋒鏑ノ経始スル所ト、吁何ソ兵を擁シテ官庫ニ入リ、其貨ヲ奪ヒ、是死ヲ犯シテ獲所ノモノ云ニ異ナランヤ、庫ニ入ルモノハ人其賊タルヲ知ル、土地人民ヲ攘医奪スルニ至ツテハ、天下コレヲ怪シマス甚哉名義ノ紊攘スル事。今也丕新ノ治ヲ求ム、宜シク大体ノ在ル所、大権ノ繋ル所、毫モ仮スヘカラス。抑臣等居ル所ハ、即チ天子ノ土、臣等牧スル所ハ、即チ天子ノ民ナリ。安ンソ私有スヘケンヤ。今謹ミテ其版籍ヲ収メテ之ヲ上ル。願クハ朝廷其宜ニ処シ、其与フ可キハ之ヲ与ヘ、其奪フ可キハ之ヲ奪ヒ、凡列藩ノ封土更ニ宜シク詔命ヲ下シ、コレヲ改メ定ムヘシ。而シテ制度、典型、軍旅ノ政ヨリ戎腹、器機ノ制ニ至ルマテ、悉ク朝廷ヨリ出テ、天下ノ事大小トナク皆一ニ帰セシムヘシ。然后ニ名実相得、始テ海外各国ト並立へし。故ニ臣某等不肖謭劣ヲ顧ミス、敢テ鄙衷ヲ献ス。天日ノ明、幸ニ照臨ヲ賜へ。臣某等誠恐誠惶、頓首再拝、以表。

毛利宰相中将
島津少将  
鍋島少将  
山内少将  

        「公文録・明治二年・第五十六巻・己巳・版籍奉還(一)」より

<訳文>
臣某等、頓首再拝
 かしこんで心配するのは、朝廷が一日も失ってはならないもの、天皇国家としての体制である。一日も仮借することができないのは、天皇の統治権である。天がはじめて国を開き、基礎を築かれてから、皇室の系統はいつまでも永遠に続き、天が覆い、地の続く限り、その所有でないものはなく、その臣下でないものはいない、これが天皇国家としての体制である。一方では与え、一方では奪い、爵位と俸禄によって臣下を維持し、わずかの土地も私有することはできないし、一人の民も私有することはできない、これが天皇の統治権である。
 昔は朝廷が天下を統一支配することにより、天子の御身によって親政を行ってきた。だから、名も実もならび立って、天下は何事もなかった。中葉以降、国家の法が一たびゆるみ、権力をもてあそび、柄を争ふ者が次々と続いて朝廷に起こる。その民を私し、その土地をぬすむもの、天下の半分くらいになり、ついにつかみ捕らえて食らい力づくで奪う勢力がまさり、朝廷は守る所の体制もなく、とる所の権力もなくして、これをおさえつけて自分に従わせることができなくなった。
 悪知恵にたけたものが互いに勢いに乗り、弱肉強食となり、その大きな者は十数州を併せ持ち、その小なる者でもなお士を養うこと数千にもなった。いわゆる幕府というような者は、土地人民をほしいままにその私する所に分ち、もってその勢力や権威を拡大した。これにおいて、朝廷はいたづらに名ばかりの地位を持たされ、幕府の顔色をうかがって、杞憂をなすに至ってしまった。誤まった流れは極まって、天をしのいではならないものが、ここに六百有余年も続いている。とはいうものの、その間たびたび天皇の権威を借りて、その土地人民を私するの跡を覆い隠していた。これはもとより君臣の大義上下の名分といった、変えることができない理由によるものである。
 今や政治は新しく天皇の元に戻って、すべての政治が天皇の親政となった。じつに千載一遇の好機なので、改革は名目のみではなく、実質のあるものでなければならない。その実をあげるには、大義名分をはっきりさせることが先決である。
 先に徳川氏が起り、古家や旧族は天下の半分くらいになった。それに依拠して家を興したものもまた多い。そのようにしてその土地人民これを朝廷に授与されたか否かを問はないで、古くからの風習が長く続いて今日に至っている。世間でまた考えるには、これ祖先の武力によるものだと。ああどうして兵を従えて官有の庫に入り、その財物を略奪し、これ人を殺して、奪った人のものと言うのと異なるだろうか、いや異ならない。倉庫に侵入するものは、人は盗賊であることを知っている。しかし、土地人民を略奪するに至っては、天下はこれを怪しいとは思わず、はなはだししいときは、名分も損壊することとなる。今や偉大で新しい政治が求められている。よろしく天皇国家としての体制の在る所、天皇の統治権の及ぶ所、少しでも仮にしてはいけない。
 そもそも私たちがいる所は、端的には天皇の土地、治めているのは天皇の臣民である。どうして私有することができようか。今つつしんで私たちの土地・人民を奉還する。どうか朝廷のよろしいように措置されて、与えるべきものには与え、奪うべきものは奪い、諸藩の領地については天皇の命令によって改めて決定すべきである。そして制度・法律・軍制から軍服・兵器の制度に至るまで、すべて朝廷で定めて天下の政治は大小となく朝廷に一元化すべきである。そうすれば、名実ともに備わり、海外の列強と並び立つことができよう。これこそ朝廷の急務であり、私たち臣下の責務である。だから臣下の者等、未熟で才能が浅くて劣っていることを顧みず、あえて真心を以て上表する。天日の明、幸にも君主の国土、人民の統治について下賜いただきたい。
 臣某等 誠恐誠惶 頓首再拝以表。

 毛利宰相中将
 島津少将  
 鍋島少将  
 山内少将 
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 今日は、俳人荻原井泉水が1884年(明治17)に生まれた日です。
 明治時代後期から昭和時代に活躍した俳人で、本名は藤吉といいます。1884年(明治17)6月16日に、東京市芝区神明町(現在の東京都港区浜松町)で雑貨商の次男として生まれ、麻布中学へ進みました。
 在学中より俳句を作るようになり、1901年(明治34)には、旧制第一高等学校に入学して、正岡子規の日本派に参加し、一高俳句会をおこすことになります。
 1905年(明治38)に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)言語学科へ入学し、河東碧梧桐の新傾向俳句運動に加わって、井泉水の俳号を使うようになりました。
 大学卒業後、1911年(明治44)に新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰するようになり、谷桂子とも結婚します。その後、季題を廃し定型を捨てて自由律俳句を確立し、俳壇に大きな影響をあたえました。
 門下として、野村朱鱗洞、芹田鳳車、尾崎放哉、種田山頭火らがここから出ることになります。
 1955年(昭和30)に昭和女子大学教授、1965年(昭和40)に芸術院会員となりますが、1976年(昭和51)5月20日に、91歳で亡くなりました。
 句集に『原泉』(1960年)、『長流』(1964年)、『大江』(1971年)、主著に『俳句提唱』(1917年)、『新俳句研究』(1926年)、『旅人芭蕉』正続(1923~25年)、『奥の細道評論』(1928年)などがあります。

〇代表的な句
 「わらやふるゆきつもる」
 「棹さして月のただ中」
 「空をあゆむ朗朗と月ひとり」
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