ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年06月

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 今日は、1884年(明治17)に、岡倉天心とフェノロサが法隆寺夢殿の救世観音を調査した日です。
 フェノロサは、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代前期の1878年(明治11)に来日したお雇い外国人の一人でした。東京大学で哲学、政治学などを講じ、日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られていますが、1884年(明治17)には、文部省図画調査会委員に任命され、その年に岡倉天心らと共に、近畿地方の古社寺宝物調査を行ったのです。
 このときに、法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉したことで知られていますが、1886年だったという説もありました。このとき、夢殿の救世観音像が数百年ぶりに姿を見せ、その時の感動が伝えられることになり、日本美術の再評価につながったと伝えられているのです。

〇法隆寺とは?
 奈良県生駒郡斑鳩町にあるこの寺は、飛鳥時代の7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、聖徳太子ゆかりの寺院で、創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされています。
 金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群とされていました。
 そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、玉虫厨子など、38件もの国宝と151件の国の重要文化財があるのです。
 また、1993年(平成5)には、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
 以下に、法隆寺にある国宝文化財を載せておきますが、これ以外に国指定重要文化財が多数あります。

☆法隆寺所蔵の文化財(国宝)
<建造物>
 南大門、金堂、五重塔、中門、回廊 2棟、経蔵、鐘楼、大講堂、聖霊院、東室、三経院及西室、西円堂、綱封蔵、食堂、東大門、夢殿、伝法堂、東院鐘楼

<美術工芸品>
 銅造阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)、
 銅造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)
 銅造薬師如来坐像(金堂安置)
 木造四天王立像(金堂安置)
 木造毘沙門天・吉祥天立像(金堂安置)
 塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)
 木造薬師如来及両脇侍坐像(大講堂安置)
 乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)
 木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)
 銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)
 銅造観音菩薩立像(夢違観音)(所在大宝蔵院)
 木造観音菩薩立像(九面観音)(所在大宝蔵院)
 木造観音菩薩立像(百済観音)(所在大宝蔵院)
 木造地蔵菩薩立像(所在大宝蔵院)。明治初期まで大神神社の神宮寺である大御輪寺に伝来。
 木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師坐像(聖霊院安置)
 木造観音菩薩立像(救世観音)(夢殿安置)
 乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)
 塑造道詮律師坐像(所在夢殿)
 玉虫厨子
 黒漆螺鈿卓
 四騎獅子狩文錦
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 今日は、1839年(天保10)に蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)です。
 蛮社の獄は、江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) の判決が下されたのです。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていました。

〇渡辺崋山とは?
 江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれたのです。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となりしました。家老として藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められます。天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されました。
 しかし、『慎機論』をを著して、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で捕らえられたのです。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しました。
 画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。
 以下に、蛮社の獄の原因となった渡辺崋山著『慎機論』の一部を引用しておきます。

☆渡辺崋山著『慎機論』の一部
「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。

(中略)

今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひは漂蕩し、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯て瑣屑の論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋戎狄といへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、驕横の端となるべし。

(後略)」
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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、壺井栄が亡くなった日です。
 壺井栄は、昭和時代に活躍した小説家・童話作家で、1899年(明治32年)8月5日に、香川県小豆郡坂手村(現在の小豆島町)の醤油樽職人岩井藤吉の五女として生まれました。
 内海高等小学校卒業後,郵便局や村役場などで働きながら、同郷の黒島伝治,壺井繁治らの影響を受けます。
 1925年(大正14)に上京後、プロレタリア詩人だった壺井繁治と結婚し、プロレタリア文学運動を通じて宮本百合子、佐多稲子を知るようになりました。
 創作活動を始めて、38歳のとき処女作『大根の葉』を発表、以後小説と童話の多彩な作品を作ります。代表作として、小説に『暦』、『妻の座』、『柿の木のある家』、『母のない子と子のない母と』などがあり、『二十四の瞳』は、戦後反戦文学の名作として、後に映画化され大ヒットしました。
 童話集に『海のたましひ』、『十五夜の月』などがあり、童話風、民話風の作品で認められることになります。しかし、1967年(昭和42)6月23日に、67歳で亡くなっています。
 尚、現在は、小豆島に「二十四の瞳映画村」や「壺井栄文学館」も出来て、見学することができます。
 
〇小説『二十四の瞳』とは?
 壺井栄著の長編小説で、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、キリスト教系の青年雑誌『ニュー・エイジ』に連載され、同年光文社から刊行されました。
 瀬戸内海のある岬の分教場に勤める若い女性教師大石先生と12人の教え子とのふれあいを描きながら、戦争に突入してから敗戦に至る時代をみつめた作品です。
 1954年(昭和29)に、木下恵介監督で映画化され、大ヒットし、1987年(昭和62)に朝間義隆監督により、再映画化されました。小豆島には、再映画化時のオープンセットを活用した「二十四の瞳映画村」があります。
 以下に、小説『二十四の瞳』の冒頭部分を引用しておきます。

「十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日。農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
 百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。交通がすごくふべんなので、小学校の先徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの木村の小学校へかようのである。手作りのわらぞうりは一日できれ た。それがみんなはじまんであった。毎朝、新らしいぞうりをおろすのは、うれしかったにちがいない。………」

☆壺井栄の主な作品
 『暦 他五篇』新潮社 1940年
 『祭着 他九篇』河出書房 1940年
 『たんぽぽ』高山書院 1941年
 『ともしび』博文館 1941年
 『船路』有光社 1941年
 『私の雑記帳』青磁社 1941年
 『石 短篇集』全国書房 1942年
 『子熊座』三杏書院 1943年
 『女傑の村』実業之日本社 1943年
 『海のたましひ』講談社 少国民の日本文庫 1944年
 『花のいのち』葛城書店 1944年
 『夕顔の言葉』紀元社 1944年年
 『松のたより』飛鳥書店 1945年
 『ふたたび』万里閣 1946年
 『赤いステッキ』櫻井書店 少年のための純文學選 1947年
 『霧の街』北桜社 1947年
 『三夜待ち』新紀元社 1947年
 『十五夜の月』愛育社 1947年
 『あんずの花の咲くころ』小峰書店 青空文庫 1948年
 『海べの村の子供たち』雁書房 1948年
 『おみやげ』好江書房 1948年
 『渋谷道玄坂』新日本文学会 1948年
 『小さな物語』桜井書店 こどもかい文庫 1948年
 『柳の糸』東西社 1948年
 『柿の木のある家』山の木書店 1949年 
 『たからの宿』弘文堂 アテネ文庫 1949年
 『妻の座』冬芽書房 1949年
 『母のない子と子のない母と』光文社 1951年 
 『右文覚え書』三十書房 1951年
 『港の少女』西荻書店 三色文庫 1951年
 『坂道』中央公論社 ともだちシリーズ 1952年 
 『二十四の瞳』光文社 1952年 
 『花はだれのために』東洋書館 1952年
 『妻の座・暦』角川文庫 1953年
 『私の花物語』筑摩書房 1953年
 『風 連作小説』光文社カッパ・ブックス 1954年 
 『紙一重』中央公論社 1954年
 『岸うつ波』光文社 1954年 
 『月夜の傘』筑摩書房 1954年
 『一本のマッチ 私の人生遍歴』朝日新聞社 1955年
 『美しい生き方を求めて』学風書院 1955年
 『まないたの歌』角川小説新書 1955年
 『続・私の花物語 第1』筑摩書房 1956年
 『裲襠』大日本雄弁会講談社 1956年 
 『雑居家族』筑摩書房 1956年 
 『裾野は暮れて』筑摩書房 1956年
 『寄るべなき人々』新潮文庫 1956年
 『海風』角川文庫 1957年
 『草の実』中央公論社 1957年 
 『極楽横丁』筑摩書房 1957年
 『小さな花の物語』平凡出版 1957年
 『忘れ霜』角川書店 1957年 
 『あたたかい右の手』麦書房 雨の日文庫 1958年
 『潮時計』実業之日本社 1958年
 『風と波と』文芸春秋新社 1958年
 『雨夜の星』講談社 1959年
 『おこまさん』中央公論社 1959年
 『随筆柚の大馬鹿』実業之日本社 1959年
 『いのちかなし』新潮社 1960年
 『大根の葉』角川文庫 1960年
 『どこかでなにかが』中央公論社 1960年 
 『ふたごのころちゃん』実業之日本社 1960年
 『あす咲く花』新潮社 1962年
 『あすの花嫁』東方社 家庭小説選書 1962年
 『若い樹々』講談社 1962年
 『若い娘たち』角川小説新書 1962年
 『まあちゃんと子ねこ』ポプラ社 1963年
 『小豆島 随筆・小説』光風社 1964年
 『母と子の暦』東方社 1964年
 『日めくり』講談社 1964年
 『柚原小はな』新潮社 1964年
 『嫁さん』集英社 1964年
 『袖ふりあう』三月書房 1965年
 『母と娘と』新潮社 1965年
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が東京で調印された日です。
 この条約は、日本と大韓民国との国交正常化のための条約です。正式には「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」といい、同年の12月18日に、大韓民国のソウルで批准書が交換されて、発効しました。
 前文と本文7ヶ条から成り、その内容は、前文で両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であるとし、本文では、(1)国交正常化、(2)戦前の諸条約の無効の確認、(3)大韓民国を朝鮮における唯一の合法政府と認める、(4)両国は相互の関係で国連憲章の原則を指針とする、(5)貿易、海運、その他の通商関係に関する条約・協定締結のため、速やかに交渉を開始する、(6)民間航空運送に関する協定の締結のため、速やかに交渉を開始する、(7)批准書の速やかな交換を規定しています。また、この条約と共に、「日韓漁業協定」、「日韓請求権並びに経済協力協定」、「在日韓国人の法的地位協定」、「文化財及び文化協力に関する協定」、「紛争解決に関する交換公文」など多くの合意が両国間で署名されました。
 尚、賠償金については交渉の末、無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル以上の援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄することになったのです。
 しかし、この条約の不備が指摘され、南北分断の固定化、対韓経済侵略、軍事同盟志向の強化なども批判されて、日韓両国ともに国内での反対運動が巻き起こりました。
 以下に、「日韓基本条約」の全文を掲載しておきます。

〇「日韓基本条約」(全文)

日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)

 日本国及び大韓民国は、
 両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係及び主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望とを考慮し、
 両国の相互の福祉及び共通の利益の増進のため並びに国際の平和及び安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、
 千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び千九百四十八年十二月十二日に国際連合総会で採択された決議第百九十五号(III)を想起し、
 この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よつて、その全権委員として次のとおり任命した。  

 日本国
 日本国外務大臣 椎名悦三郎
         高杉晋一
 大韓民国
 大韓民国外務部長官  李東元
 大韓民国特命全権大使 金東祚

 これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。

第一条
 両締約国間に外交及び領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。

第二条
 千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。

第三条
 大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。

第四条
(a)両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。
(b)両締約国は、その相互の福祉及び共通の利益を増進するに当たつて、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。

第五条
 両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くために、条約又は協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。

第六条
 両締約国は、民間航空運送に関する協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。

第七条
 この条約は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかにソウルで交換されるものとする。この条件は、批准書の交換の日に効力を生ずる。
 以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。
 千九百六十五年六月二十二日に東京で、ひとしく正文である日本語、韓国語及び英語により本書二通を作成した。解釈に相違がある場合には、英語の本文による。

 日本国のために
 椎名悦三郎
 高杉晋一
 大韓民国のために
 李東元
 金東祚


             日本外務省編「日本外交主要文書・年表(2)」より
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 今日は、二十四節季の10番目夏至の日で、太陽の黄経が90度に達する時のことで、北半球ではこの日が一年のうちで最も昼(日の出から日没まで)の時間が長いのです。東京などでは、昼間が14時間50分で、夜間は9時間25分くらいで、その時間差は、約5時間25分にもなりました。
 昼の12時のときの太陽の高さも、1年でもっとも高くなり、東京(北緯35度)の場合、太陽の南中高度は78度にもなります。
 歴史的には、夏至は収穫を迎える夏の始まりを告げる日とされ、植物や人間にとっても繁殖と関係するものと考えられてきたのです。
 全国的に知られた風習は有りませんが、地方には一部残っている所があるようです。
 関東地方などでは新小麦で焼き餅をつくって神に供える風習のあるところもありました。また、愛知県の一部では夏至の日にイチジクの田楽(イチジクを素揚げか煮て冷やし、田楽ミソを乗せる)を食べる風習があるそうです。さらに、大阪近郊では夏至から半夏までタコを食べる習慣がありますが、タコの足のように稲の根がよく地面に広がりつくようにと願うものでした。

〇二十四節季とは?
 1年を12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられていて、日本では江戸時代頃の暦から採用され、農耕生活の節目を示すものとなっていたのです。
 以下に、季節ごとに二十四節季を列挙しておきます。

「二十四節季」
(春) 立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨
(夏) 立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑
(秋) 立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降
(冬) 立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒
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