ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年06月

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 今日は、1944年(昭和19)に、東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団疎開が促進された日(集団疎開の日)です。
 昭和時代前期の1941年(昭和16)に、太平洋戦争に突入すると、国内でも、戦地に赴いた兵隊の労働の穴を埋めるために、女性の職場進出が叫ばれ、学生も学業を投げ打って、勤労動員や女子挺身隊として、工場や農村で労働に従事しました。
 物資は配給制となって、思うように買えず、兵器や鉄砲の弾にするために、金属類の供出が求められ、耐乏生活を余儀なくされました。
 空襲がひどくなると地方への学童疎開が行われるようになり、親子が分かれて暮さなければならなくなったりしたのです。

〇「学童疎開」とは?
 太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京,大阪,名古屋,横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。
 アメリカ軍の爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。
 しかし、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸し、さらにその危険が増大することになり対策の強化が迫られたのです。
 その中で、同年6月30日、東条英機内閣は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。
 そして、同年8月から学校単位の集団疎開が実施され、1945年(昭和20)の疎開児童数は約 45万人に達したのです。
 これにらの疎開先では公会堂、社寺、旅館などが宿舎とされ、そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。
 そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すといういたましい事件も発生したのです。

☆「学童疎開促進要綱」(昭和19年6月30日閣議決定)

防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ル外特ニ国民学校初等科児童(以下 学童ト称ス)ノ疎開ヲ左記ニ依リ強度ニ促進スルモノトス
                       記
一 学童ノ疎開ハ縁故疎開ニ依ルヲ原則トシ学童ヲ含ム世帯ノ全部若ハ一部ノ疎開又ハ親戚其ノ他縁故者アル学童ノ単身疎開ヲ一層強力ニ勧奨スルモノトス
二 縁故疎開ニ依リ難キ帝都ノ学童ニ付テハ左ノ帝都学童集団疎開実施要領ニ依リ勧奨ニ依ル集団疎開ヲ実施スルモノトス他ノ疎開区域ニ於テモ各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準ジ措置スルモノトス
三 本件ノ実施ニ当リテハ疎開、受入両者ノ間ニ於テ共同防衛ノ精神ニ基ク有機一体的ノ協力ヲ為スモノトス
四 地方庁ハ疎開者ノ適確ナル数及疎開先ヲ予メ農商省ニ通知スルモノトス            
       

☆「帝都学童集団疎開実施要領」(昭和19年7月7日)

第一 集団疎開セシムベキ学童ノ範囲
  区部ノ国民学校初等科三年以上六年迄ノ児童ニシテ親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノトシ保護者ノ申請ニ基キ計画的ニ之ヲ定ムルモノトス
第二 疎開先
  疎開先ハ差当リ関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス
第三 疎開先ノ宿舎
 一、宿舎ハ受入地方ニ於ケル余裕アル旅館、集会所、寺院、教会所、錬成所、別荘等ヲ借上ゲ之ニ充テ集団的ニ収容スルモノトス
 二、都ノ教職員モ児童ト共ニ共同生活ヲ行フモノトス
 三、寝具、食器其ノ他ノ身廻品ハ最小限度ニ於テ携行セシムルモノトス
第四 疎開先ノ教育
 一、疎開先ノ教育ハ必要ナル教職員ヲ都ヨリ附随セシメ疎開先国民学校又ハ宿舎等ニ於テ之ヲ行フモノトス
 二、疎開先ノ地元国民学校ハ教育上必要ナル協力援助ヲ為スモノトス
 三、疎開先ニ於テハ地元トノ緊密ナル連絡ノ下ニ学童ヲシテ適当ナル勤労作業ニ従事セシムルモノトス
 四、宿舎ニ於ケル学童ノ生活指導ハ都ノ教職員之ニ当ルモノトス
 五、疎開先ニ於ケル学童ノ養護及医療ニ関シテハ充分準備ヲ為シ支障ナキヲ期スモノトス
第五 物資ノ配給
  疎開先ニ於ケル食糧、燃料其ノ他ノ生活必需物資ニ付テハ農商省其ノ他関係省ニ於テ所要量ヲ用途ヲ指定シ特別ニ配給ヲ為スモノトス
第六 輸送
  本件実施ニ伴フ輸送ニ関シテハ他ノ輸送ニ優先シ特別ノ措置ヲ講ズルモノトス
第七 経費ノ負担
 一、本件実施ニ伴フ経費ハ保護者ニ於テ児童ノ生活費ノ一部トシテ月拾円ヲ負担スルノ外凡テ都ノ負担トス
    尚前項ノ負担ヲ為シ得ズト認メラルルモノニ付テハ特別ノ措置ヲ講ズ
 二、国庫ハ都ノ負担スル経費ニ対シ其ノ八割ヲ補助スルモノトス
第八 其ノ他
 一、本件実施ニ伴ヒ出来得ル限リ残存学級ノ整理統合ヲ行フモノトス
 二、本件実施ニ当リテハ都ニ於テ疎開先ノ地元府県市町村ト緊密ナル連絡ヲ図ルモノトス


☆「帝都学童集団疎開実施細目」(昭和19年7月10日)

第一 集団疎開ノ希望調査
一、 区長、学校長ヲ通ジテ適切ナル方法ニ依リ本措置ノ趣旨ヲ学童ノ保護者ニ徹底セシメ其ノ自発的申出ヲ指導勧奨スルコト
二、 勧奨ニ当リテハ時節柄言辞ニ注意シ無用ノ紛乱誤解ヲ惹起セザル様留意スルコト
三、 集団疎開ノ希望ヲ調査スル際併セテ縁故疎開ヲ希望スル学童ノ疎開先府県名、疎開予定期日等ヲモ調査シ、縁故疎開ノ円滑ナル遂行ニ資スルコト
四、 虚弱児童等ノ集団疎開ニ適セザル者ハ努メテ縁故疎開ニ依ラシムル如ク措置スルコト

第二 疎開先ノ決定
一、 帝都学童ノ疎開先ハ東京都郡部、埼玉県、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、山梨県、新潟県、宮城県、静岡県(一部ヲ横浜市、川崎市、横須賀市ノ疎開先ニ充ツ)長野県、福島県、山形県トシ必要ニ応ジ其ノ範囲ヲ拡張スルコト
 二、 疎開先ハ努メテ罹災者避難ノ連結県又ハ其ノ近接県ニ選定スルコト
 三、 集団疎開学童数ハ一応二十萬ト概定シ之ノ概数ヲ送出区及受入県ニ仮割当ヲ為シ計画準備ヲ進ムルコト
四、 都ニ於テ区別ノ受入県ヲ、区ニ於テ学校別ノ疎開先ヲ決定スルモノトシ、具体的宿舎割当ハ受入県、市町村当局ト都、区、学校当局ニ於テ協議下検分ノ上最終的決定ヲ為スコト

第三 疎開先ノ宿舎
 一、 宿舎ハ一箇所(同一管理者ノ管理シ得ル範囲)ニ於ケル収容学童数百名程度ヲ標準トシテ選定スルコト
 二、 宿舎借上契約ノ当事者ハ都タルベキモ、地元当局ニ於テ借上及借上条件ノ決定等ニ付強度ノ援助ヲ為スコト
 三、 必要ナル寝具、炊事用具、机等ノ借入ニ付テモ同様援助ヲ為スコト
 四、 地元ニ於テ採用スルヲ要スル寮母、作業員等ノ詮衡ニ付テモ同様援助ヲ為スコト
五、 宿舎ノ附属設備等ニシテ改善手入等ヲ要スルモノハ予メ地元ノ協力ニ依リ相当ノ手配ヲ講ジ置クコト
 六、 借上ゲタル宿舎ノ建具、器物等ノ破損ニ対シテハ使用終了後ニ於テ之ガ損失補償ヲ為スコト
 七、 宿舎ニ於ケル賄ハ宿舎ノ経営主等ヲシテ請負ハシメ又ハ地元ノ協力ヲ得テ直営スルコト

第四 疎開先ニ於ケル教育 養護
一、 疎開先ニ於ケル教育ヲ都立国民学校ノ分教場ノ形式ニ依ルカ或ハ地元委託ニ依ルカハ都ト受入県トノ協議ニ依ルコト
二、 教育ヲ地元ニ委託シタル場合ハ経営ヲ都ニ於テ支弁シ、都ヨリ附随セシメル教職員ヲ地元国民学校兼務トスルコト
三、 地元国民学校ニ於テハ事情ノ許ス限リ二部授業ノ採用等ニ依リ疎開学童ノ収容ヲ図ルコト
 四、 右ニ依リ難キ場合ハ付近近在ノ公会堂、寺院、錬成所、大農場等ニシテ教場ニ充テ得ベキ建物又ハ宿舎ニ於テ授業ヲ行フモノトス之ガ為メ必要ナル机、腰掛等ハ地元調達ヲ図ルノ外努メテ都内ヨリモ送付スルコト
 五、 集団疎開学童ハ都内上級学校ヘノ進学ヲ認ムルト共ニ本人ノ希望ニ依リ地元ノ収容力ヲ勘案シテ地元ニ於ケル進学ヲモ認ムルコト
 六、 勤労作業ハ児童ノ環境順応ノ程度ニ応ジ且ツ地元トノ融和促進、食糧自給等ヲ目途トシテ之ヲ施スコト
 七、 医師、看護婦ノ嘱託等ニ付地元ニ於テモ協力スルコト
 八、 送出学校ヨリ若干ノ救急医療材料ヲ携行セシメルコト
 九、 児童衣類等ノ洗濯修理等ニ付テハ能フ限リ地元婦人団体等ノ協力奉仕ヲ促スコト

第五 食糧其ノ他生活必需物資、学童用品ノ調達
 一、 主要食糧、調味食品等ノ配給統制物資ハ疎開計画ノ進捗ニ即応シテ東京都分ヨリ受入県分ニ割当転換ヲ為シ、集団疎開学童用トシテ指定シ受入県ニ割当ツルコト
 二、 燃料其ノ他ノ統制物資ニ付テモ右ニ準ジ取扱フコト
三、 惣菜、生鮮魚介等ノ副食物ニ付テハ極力地元ニ於テ調達ニ付斡旋スルコト
四、 生鮮魚介類ノ入手困難ナル地方ニ対シテハ塩干魚、介藻類、佃煮等代替物ノ配給ヲ考慮スルコト
五、 計画配給ノ単位量ニ付テハ努メテ東京都ニ於ケル現行標準ヲ尊重スルコト
六、食糧、燃料其ノ他生活必需物資ノ調達運搬等ニ付テハ地元当局、諸団体等ニ於テ能フ限リノ協力ヲ為スコト
 七、 疎開学童ヲシテ極力食糧燃料等ノ自給生産ニ当ラシムルコト
 八、 学童用品ノ配給ハ都ト受入県トノ協議ニ依リ夫々責任区分ヲ定メ配給ノ適正ヲ期スルコト    此ノ際特ニ地元学童トノ調和ニ留意スルコト
九、 食糧、燃料等生活必需物資ハ学童ノ転入以前ニ調達準備ニ遺漏ナキヲ期スルモノトシ、非常用トシテ食糧数日分ヲ児童ヲシテ携行セシムルコト

第六 輸送
 一、 疎開児童数及出発日時ハ可及的速ニ区長ヨリ疎開輸送支部ニ申告セシムルコトトシ、必要ニ応ジ臨時列車ノ特発、車両ノ指定其ノ他特別ノ措置ヲ考慮スルコト
 二、 見廻物品ノ携行ハ寝具、食器、着換ヘ其ノ他当座ノ必需品ニ止メ他ハ取纏メ追送ノ方途ニ依ルコト
 三、 見廻物品ハ車内持込ヲ除キ児童一人当リ二十キロ以内一個(蒲団ヲ含ム)程度トスルコト
 四、 炊事道具、校具等ハ必要最小限度ノモノヲ輸送スルコト
 五、 発着地ニ於ケル小運送ハ小運送業者ニ依ルノ外輸送挺身隊、勤労報国隊、地元諸団体ノ協力ヲ促スコト

第七 経済
 一、 経済負担ノ減免ヲ受クル児童保護者ハ貧困者トシ申請ニ依リ都ニ於テ決定スルコト
 二、 本件実施ニ要スル受入県、市町村ノ費用ニ対シ国庫ヨリ若干ノ補助ヲ為スコト

第八 都内ヘノ復帰、父兄ノ面会
 一、 疎開児童ニシテ止ムヲ得ザル事情ニ依リ都内ヘノ復帰等ヲ希望スル場合ハ学校長ノ詮議ニ依リ之ヲ承認シ得ルコト
 二、 父兄ノ面会ニ付テハ成ルベク便宜ヲ図ルモ極力自制セシムルコト
    尚 必要アルトキハ疎開先責任者ヨリ連絡シ父兄ヲ呼寄スルコト

第九 其ノ他
 一、 本件実施ノ期間ハ差当リ一年トスルコト
 二、 父兄、教職員、学童、受入側官民ニ対シ本件実施ノ本義ヲ徹底セシムル様特別ノ措置ヲ講ズルコト
 三、 本件実施ニ当リテハ地元当局ノ外警防団、婦人会、青少年団、在郷軍人会、翼賛壮年団其ノ他諸団体、篤志家等ノ協力ヲ促スコト<BR>
 四、 都庁内ニ疎開先トノ緊密ナル連絡ニ資スル為連絡協議会ヲ設置スルコト<BR>
 五、 都ノ職員ヲ受入県庁内又ハ適当ナル場所ニ派遣シ必要ニ依リ受入県ニ兼務セシムルコト<BR>
 六、 受入県庁ニ於テハ各部課トモ其ノ所管ニ応ジ協力スルト共ニ本件主管ノ部課ヲ特定シ事務連絡ニ資スルコト
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 今日は、1903年(明治36)に作曲家瀧廉太郎が亡くなった日で、廉太郎忌と呼ばれています。 
 瀧廉太郎は、明治時代後期に活躍した日本最初の本格的な作曲家です。
 1879年(明治12)8月24日に、東京府芝区南佐久間町(現在の東京都港区西新橋)に生まれました。しかし、父の転勤にともない横浜、富山、東京、大分へと移り住むことになります。
 1890年(明治23)に15歳で東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学し、1898年(明治31)に本科を卒業すると、研究科に進みました。
 翌年から同校嘱託となり2年ほど後進の指導に当たりましたが、この間に組歌『四季』、中学唱歌「箱根八里」・「荒城の月」、幼稚園唱歌「鳩ぽっぽ」・「お正月」などの今日でもよく知られている歌を作曲したのです。
 1901年(明治34)には、文部省留学生第1号としてドイツに渡り、ライプチヒ音楽院に入学しました。しかし、結核を患って、帰国のやむなきに至り、父の故郷である大分県で療養することになったのです。
 その後治療の甲斐もなく、1903年(明治36)6月29日に大分市の自宅において、23歳で死去しました。

〇瀧廉太郎の主要な作品一覧
 日本男児 (詞・東郊:1896年)
 春の海 (詞・東くめ:1897年)
 散歩 (詞・中村秋香:1897年)
 命を捨てて (詞・不詳:1897年)
 我神州 (詞・砂沢丙喜治:1899年)
 四季の瀧 (詞・東くめ:1899年)
 メヌエット(ピアノ曲:1900年)
 組歌『四季』
  1 花 (詞・武島羽衣:1900年)
  2 納涼 (詞・東くめ:1900年)
  3 月 (詞・瀧廉太郎:1900年)
  4 雪 (詞・中村秋香:1900年)
 中学唱歌
  箱根八里 (詞・鳥居忱:1900年)
  荒城の月 (詞・土井晩翠:1900年)
  豊太閤 (詞・外山正一:1900年)
 幼稚園唱歌(作曲は1900年から)
  ほうほけきょ (詞・瀧廉太郎:1901年)
  ひばりはうたひ (詞・東くめ:1901年)
  鯉幟 (詞・東くめ:1901年)
  海のうへ (詞・東くめ:1901年)
  桃太郎 (詞・瀧廉太郎:1901年)
  お池の蛙 (詞・東くめ:1901年)
  夕立 (詞・東くめ:1901年)
  かちかち山 (詞・東くめ:1901年)
  みずあそび (詞・瀧廉太郎:1901年)
  鳩ぽっぽ (詞・東くめ:1901年)
  菊 (詞・東くめ:1901年)
  雁 (詞・瀧廉太郎:1901年)
  軍ごっこ (詞・東くめ:1901年)
  雀 (詞・佐佐木信綱:1901年)
  雪やこんこ (詞・東くめ:1901年)
  お正月 (詞・東くめ:1901年)
  さようなら (詞・東くめ:1901年)
 別れの歌 (詞・不詳:1902年)
 水のゆくへ (詞・不詳:1902年)
 荒磯の波 (詞・徳川光圀:1902年)
 憾(ピアノ曲:1903年)

☆瀧廉太郎作詞・作曲の幼稚園唱歌
・『ほーほけきょ』 作詞・作曲 瀧 廉太郎
(問) 小さい子、小さい子、
    お前はなにをして居ます。
(答) 私は梅をかいでます。
(問) 梅をかいで夫(それ)から。
(答) 夫(それ)から歌をうたひます。
(問) 何の歌をうたひます。
(答) 黄色い靑い着物着て。
(合唱) けきょけきょ けきょけきょ ほーほけきょ。

・『桃太郎』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  桃太郎さんの、 お供には。
  犬猿雉子の、  三匹よ。
  お供の褒美は、 何やらう。
  日本一の、   黍団子。

・『水あそび』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  水を沢山、 くんで来て。
  水鉄砲で、 遊びましょー。
  一二三四、 ちゅっ ちゅっ ちゅっ。

・『雁(がん)』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  月のあかりに、   黒いがん。
  一所にならんで、  五つ六つ。
  親がさきへゆき、  子はあとに。
  何処から来たのか、 つれだって。
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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、小説家林芙美子が亡くなった日で、芙美子忌と呼ばれています。
 林芙美子は、昭和時代に活躍した小説家で、本名は、林フミコといい、1903年(明治36)12月31日に、福岡県門司市(現在の福岡県北九州市門司区)で行商人の娘として生れたといわれますが、はっきりしないそうです。
 その後、各地を転々と放浪しながら育ち,1922年(大正11)に、尾道高等女学校を卒業後上京し、事務員・露天商・女工・女給などの職を遍歴しながら詩や童話を書き始めました。日記をつけるようにもなり、アナーキストの詩人や作家との交流の中で影響をうけるようになったのです。1926年(昭和元)、画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をし、生活が安定しました。
 1928年(昭和3)、『女人藝術』に「秋が来たんだ――放浪記」の連載を開始し、1930年(昭和5)に改造社から刊行した自伝的小説『放浪記』がベストセラーとなったのです。
 他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、戦後に渡って、第一線の女流作家としての活躍を続けましたが、1951年(昭和26)6月28日に47歳で急逝しました。

〇小説『放浪記』とは?
 作家の林芙美子が自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説で、昭和時代前期の1928年(昭和3)、長谷川時雨主宰の『女人藝術』に、10月から翌々年10月まで20回、「秋が来たんだ――放浪記」として掲載されました。
 そして、1930年(昭和5)に改造社から刊行した『放浪記』と『続放浪記』が好評を博し、ベストセラーとなったのです。
 この小説は、昭和恐慌下の暗い東京で、貧困にあえぎながらも、向上心を失わず強く生きる一人の女性の姿が多くの人々をひきつけたものと思われます。
 1939年(昭和14)、「決定版」を謳って新潮社から刊行された際、大幅な改稿が行われました。さらに、戦後になって1946年(昭和21)5月からは、「日本小説」に第三部の連載が始まり、1949年(昭和21)『放浪記第三部』として刊行されました。そして、1979年(昭和54)には、これら全てを含めた『新版 放浪記』が新潮社から刊行され、これが実質上の定本となりました。
 また、1935年(昭和10)に木村壮十二監督(P.C.L.映画製作所)、1954年(昭和29)に久松静児監督(東映)、1962年(昭和37)に成瀬己喜男監督(東邦)と3度にわたり映画化されていますし、テレビドラマとしても何回か放送されています。
 さらに、女優・森光子が1961年(昭和36)に主役で、東京の芸術座で初演した舞台版「放浪記」は、同一主演者により2009年(平成21)まで2,017回の上演を記録しました。
 以下に、小説『新版 放浪記』の冒頭部分を紹介しておきます。

☆小説『新版 放浪記』の冒頭部分
「第一部
    放浪記以前

 私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

 更けゆく秋の夜 旅の空の
 侘わびしき思いに 一人なやむ
 恋いしや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物ふとものの行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処ところであった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人たびびとである私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売せりうりをして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草あまくさから逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。
 今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。私は母の連れ子になって、この父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。どこへ行っても木賃宿きちんやどばかりの生活だった。「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ……」母は私にいつもこんなことを云っていた。そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。ざっこく屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京ナンキン町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾おりおと言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。
「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」
 せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭いやになっていたのだ。それは丁度、直方のうがたの炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせてはモッタイナイ年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。

 直方の町は明けても暮れても煤すすけて暗い空であった。砂で漉こした鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李こうりに入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。
 私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯へこおびに巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭がいたんのザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋くずや、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖とがった目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢じゅばんきりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。
 流行歌のおいとこそうだよの唄が流行はやっていた。

 ……… 」
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 今日は、1850年に新聞記者・小説家である小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の生まれた日です。
 小泉八雲の本名は、パトリック・ラフカディオ・ハーンといい、1850年6月27日に当時のイギリス領であったレフカダ島で生まれました。
 1852年、両親と共に父の家があるダブリンに移住し、幼少時代を過ごしたのです。フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年にアメリカに渡り、20代前半からジャーナリストとして活躍し始め、文芸評論から事件報道まで行いました。
 1890年(明治23)、アメリカの出版社通信員として来日したものの、その契約を破棄して、島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられて、松江にやってきたのです。そして、翌年に元松江藩士の娘セツと結婚し、約5ヶ月間新婚生活を松江で過ごしました。
 その後八雲は、熊本の第五高等学校へ転任、そして1894年(明治27)には、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞の記者となります。
 1896年(明治29)には帰化して、東京帝国大学や東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を講じました。しかし、1904年(明治37)9月26日に、狭心症のため東京において、54歳で亡くなっています。
 この間、14年を日本で過ごしましたが、怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名で、翻訳、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しました。

〇小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の主要な著作
 『飛花落葉集』1884年
 『ゴンボ・ゼーブ』 1885年
 『クレオール料理』 1885年
 『中国怪談集』 1887年
 『チータ』 1889年
 『ユーマ』 1890年
 『仏領西インドの二年間』 1890年
 『知られざる日本の面影』 1894年
 『東の国より』 1895年
 『心』 1896年
 『仏陀の国の落穂』 1897年
 『異国風物と回想』 1898年
 『霊の日本にて』 1899年
 『影』 1900年
 『日本雑録』 1901年
 『骨董』 1902年
 『怪談』 1904年
 『日本―一つの解明』 1904年
 『天の河綺譚その他』 1905年
 以下に、『怪談』の中の「耳なし芳一の話」の冒頭部分を引用しておきます。

☆「耳なし芳一の話」戸川明三訳の冒頭部分
 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮もがいていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然ちゃんと行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。
 幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。
 芳一には出世の首途かどでの際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。

(後略)
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 今日は、1968年(昭和43)に「小笠原返還協定」の発効によって、小笠原諸島が返還された日です。
 この協定は、昭和時代後期の1968年(昭和43)4月5日に、東京で署名された、日本とアメリカ合衆国との条約です。
 太平洋戦争後、小笠原諸島は、アメリカの軍政の下に置かれ、島民は島外に退去させられました。しかしその後、沖縄返還と共に小笠原返還を求める旧島民やその他日本国民の要求が高まったのです。
 その結果、1967年(昭和42)11月14日および11月15日に佐藤栄作内閣総理大臣とリンドン・ジョンソンアメリカ合衆国大統領が会談して、小笠原諸島の1年以内の返還に合意しました。
 そして、アメリカとの小笠原返還協定は、1968年(昭和43)4月5日に調印、5月22日に国会で承認され、6月25日に発効したのです。
 この協定は、前文と本文6ヶ条から成り、その内容は、前文で「サンフランシスコ平和条約」第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を日本国のために放棄するとし、本文では、(1)小笠原の施政権の返還についての確認、(2)アメリカ合衆国との間に締結された条約及びその他の協定の適用の確認、(3)アメリカ軍施設の存続についての確認、(4)南鳥島の測候所の運営の継続、(5)裁判、訴訟等の効力について、(6)協定の発効についてを規定していました。
 この協定発効後、小笠原の施政権が返還され、旧島民も帰島したりして、東京都小笠原村となったのです。
 以下に、「小笠原返還協定」の全文を掲載しておきます。

〇「小笠原返還協定」(全文)
南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定
(略称)米国との小笠原返還協定

 日本国総理大臣とアメリカ合衆国大統領は、千九百六十七年十一月十四日及び十五日に南方諸島及びその他の諸島の地位について検討し、これらの諸島の日本国への早期復帰をこの地域の安全をそこなうことなく達成するための具体的な取極に関して日本国政府及びアメリカ合衆国政府が直ちに協議に入ることに合意したので、
アメリカ合衆国は、南方諸島及びその他の諸島に関し、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第三条の規定に基づくすべての権利及び利益を日本国のために放棄することを希望するので、また、
日本国は、南方諸島及びその他の諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権力を行使するための完全な権能及び責任を引き受けることを望むので、
よつて、日本国政府及びアメリカ合衆国政府は、この協定を締結することに決定し、このためそれぞれの代表者を任命した。これらの代表者は、次のとおり協定した。

第一条
1 アメリカ合衆国は、2に定義する南方諸島及びその他の諸島に関し、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第三条の規定に基づくすべての権利及び利益を、この協定の効力発生の日から日本国のために放棄する。日本国は、前記の日に、これらの諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権力を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける
2 この協定の適用上、「南方諸島及びその他の諸島とは、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島をいい、これらの諸島の領水を含む。

第二条
 日本国とアメリカ合衆国との間に締結された条約及びその他の協定(千九百六十年一月十九日にワシントンで署名された日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約及びこれに関連する取極並びに千九百五十三年四月二日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の友好通商航海条約を含むが、これらに限られない。)は、この協定の効力発生の日から南方諸島及びその他の諸島に適用されることが確認される。

第三条
1 合衆国軍隊が現に利用している硫黄島及び南鳥島における通信施設用地(ロラン局)は、千九百六十年一月十九日にワシントンで署名された日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定に定める手続に従つて、合衆国軍隊が使用する。もつとも、避けがたい遅延のためこの協定の効力発生の日までに前記の手続によることができない場合には、日本国は、アメリカ合衆国に対し、その手続が完了するまでの間、これらの特定の用地を引き続き使用することを許すものとする。
2 合衆国軍隊が現に利用している南方諸島及びその他の諸島における設備及び用地は、1に掲げるものを除くほか、この協定の効力発生の日に日本国に引き渡される。もつとも、避けがたい遅延のためこの協定の効力発生の日までに前記の引渡しを完了することができない場合には、日本国は、アメリカ合衆国に対し、その引渡しが完了するまでの間、これらの設備及び用地を引き続き使用することを許すものとする。
3 必要な手続又は引渡しが完了するまでの間合衆国軍隊が1及び2の規定に基づいて行なう設備及び用地の使用は、千九百六十年一月十九日にワシントンで署名された日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に従つて行なわれた取極により規律されるものとする。

第四条
 合衆国気象局が現に運営している南鳥島の測候所は、この協定の効力発生の日に日本国政府に引き渡される。この引渡しについて避けがたい遅延がある場合には、引渡しが完了するまでの間、測候所の現状どおりの運営が継続されることが合意される。

第五条
1 日本国は、この協定の効力発生の日前に南方諸島及びその他の諸島におけるアメリカ合衆国の軍隊若しくは当局の存在、職務遂行若しくは行動又はこれらの諸島に影響を及ぼしたアメリカ合衆国の軍隊若しくは当局の存在、職務遂行若しくは行動から生じたアメリカ合衆国並びにこれらの諸島の現地当局に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄する。ただし、前記の放棄には、これらの諸島の合衆国による施政の期間中に適用されたアメリカ合衆国の法令又はこれらの諸島の現地法令により特に認められる日本国民の請求権の放棄を含まない。
2 日本国は、南方諸島及びその他の諸島の合衆国による施政の期間中に合衆国の当局若しくは現地当局の指令に基づいて若しくはその結果として行なわれ、又は当時の法令によつて許可されたすべての作為又は不作為の効力を承認し、合衆国国民又はこれらの諸島の居住者をこれらの作為又は不作為から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動も執らないものとする。
3 合衆国の当局又は現地当局は、南方諸島及びその他の諸島の合衆国による施政の期間中、これらの諸島における財産権及び所有利益で、日本国及び前記の期間中にアメリカ合衆国が執つた措置により当該財産権又は利益の使用、収益又は行使を不可能にされた日本国民に属するものの権原を移転するようないかなる公的な行動も執らなかつたことが確認される。

第六条
 この協定は、日本国がその国内法上の手続に従つてこの協定を承認した旨の通知をアメリカ合衆国政府が日本国政府から受領した日の後三十日目の日に効力を生ずる。

 以上の証拠として、下名は、各自の政府から正当な委任を受け、この協定に署名した。千九百六十八年四月五日に東京で、ひとしく正文である日本語及び英語により本書二通を作成した。

 日本国のために
   三木武夫

アメリカ合衆国のために
   U・アレクシス・ジョンソン

         日本外務省編「わが外交の近況(外交青書)」昭和43年版(第13号)より
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