川端康成は、大正時代から昭和時代に活躍した小説家で、大阪府大阪市に生まれ、茨木中学を終え、旧制第一高等学校から、東京帝国大学文学部に学びました。1921年(大正10)、在学中に石浜金作、鈴木彦次郎らと第六次『新思潮』を創刊し、それに掲載した『招魂祭一景』によって菊池寛らに認められます。
1924年(大正13)、大学卒業後、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、今東光らと『文芸時代』を創刊し、新感覚派の代表作家として活躍しました。
代表作は『伊豆の踊子』、『雪国』、『古都』、『山の音』、『抒情歌』、『禽獣』、『千羽鶴』、『眠れる美女』などがあります。
太平洋戦争後の1948年(昭和23)に、日本ペンクラブ第4代会長に就任し、1957年(昭和32)に国際ペンクラブ東京大会を主催するなど尽力したのです。それらの功績により、1961年(昭和36)に文化勲章を受章し、1968年(昭和43)には日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。
また、批評家としても優れていて、新人作家を発掘し、堀辰雄、北条民雄、岡本かの子、三島由紀夫などを育てたのです。
しかし、1972年(昭和47)4月16日に72歳で、神奈川県逗子市のマンションの自室において、ガス自殺しました。
尚、川端康成と伊豆とのかかわりは深く、旧制高校生の青春時代から何度も伊豆半島に足を運び、各地の温泉旅館に逗留しています。自身とても気に入っていたようで、伊豆を題材に『伊豆の踊子』をはじめ、『春景色』『温泉宿』など30篇ほどの小説を書いています。
その中でも、最も有名な『伊豆の踊子』の冒頭部分を引用しておきます。
〇『伊豆の踊子』川端康成著より
「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
私は、二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲った急な坂道を駈け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人の一行が休んでいたのだ。
突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座蒲団を外して、裏返しに傍へ置いた。
・・・・・・・」