ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年05月

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 今日は、1969年(昭和44)に、東名高速道路の大井松田インターチェンジ~御殿場インターチェンジが開通し、東京から愛知県小牧市まで全長346kmにおよぶ東名高速道路が全線開通した日です。
 これによって、小牧インターチェンジで、4年前に完成していた名神高速車道と接続し、関東から関西が高速道路で結ばれることになり、日本の大動脈となりました。
 東名高速道路の構想は、1953年(昭和28)に当時の建設省が公表した「東京神戸間有料道路計画書」が始めです。そして、時の政府は最初に整備すべき区間を名古屋~神戸間に限定し、名神高速道路として先行建設されることになりましたが、それは、東京オリンピック前の1964年(昭和39)に部分開通し、翌年に全線開通していました。
 東名高速道路の方は、1962年(昭和37)に工事に着手し、1968年(昭和43)4月25日に、東京インターチェンジ~厚木インターチェンジ間・富士インターチェンジ~静岡インターチェンジ間・岡崎インターチェンジ~小牧インターチェンジ間が部分開通したのです。
 そして、徐々に開通区間を延ばしていって、1969年(昭和44)5月26日に全線開通となりました。平地部では、100km/h制限(一部の区間は80km/h)で走行することができ、名神高速道路とあわせて、関東から関西への自動車輸送時間が大幅に短縮されることになったのです。
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 今日は、1885年(明治18)に、明治時代後期から昭和時代前期に活躍した詩人・歌人である平野万里(ひらのばんり)が生まれた日です。
 北原白秋や木下杢太郎と同じ年、埼玉県北足立郡大門町(現在のさいたま市緑区)に生まれましたが、本名は平野久保(ひさやす)です。
 1890年(明治23)一家で上京し、駒本尋常高等小学校を経て、郁文館中学に入学しました。1901年(明治34)ころには新詩社に入り与謝野寛(鉄幹)に師事、旧制第一高校から東京帝国大学へ進みましたが、文芸誌「明星」に短歌・詩・翻訳などを発表するようになりました。
 在学中の1907年(明治40)には、与謝野寛(鉄幹)に連れられ、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇と共に、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行である「五足の靴」の旅にもいっしょに行くことになります。
 同年、歌集『わかき日』を刊行、翌年大学卒業後は、横浜の会社に就職し、1910年(明治43)からは満鉄中央試験所の技師として大連に赴任しました。
 その後、約3年間のドイツ留学も経験し、帰国後は農商務省技師となって、1938年(昭和13)に退官するまで勤めたのです。
 その間、作歌を中断した時期もありますが、のちの『明星』の主要なる歌人として活躍しました。途中『明星』を離れた者が少なくない中で、終生『明星』の歌風を守った人です。
 1947年(昭和22)2月10日に61歳で没しています。
 以下に、歌集『わかき日』より5首引用しておきます。
 
 子安貝底つ岩根の新室に波の音きく春は來りぬ。
 君と入り、あらむ千年の火の室とエトナの山はむらさきにして。
 薔薇いろの靄のやうなる昼の雨降るを思ひて傘を賜ひぬ。
 月ふけて桜は夜眼に白かりき、初めて君を吸ひし日思ふ。
 秋の野の薄の如くギオリンの弓こそなびけ、楽の風吹く。

☆「五足の靴」とは
 明治時代後期の1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行をした、5人(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)による紀行文です。その年の「東京二六新聞」に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載されました。いろいろな所に立ち寄っていますが、特に、天草下島西海岸の富岡より大江まで約32劼鯏綿發嚢圓部分が印象的です。一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せました。その後、これら若き詩人・歌人の開眼に大きな役割を果たしたと言われ、白秋の『邪宗門』、『天草雑歌』、杢太郎の『天草組』は、この旅に想を得て誕生した詩です。尚、新聞連載時の執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、北原白秋は「H生」、木下杢太郎は「M生」、吉井勇は「I生」、平野万里は「B生」の仮名を用いています。
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 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、日本労働組合評議会が結成された日です。 
 これは、日本労働総同盟(総同盟)を除名された左派系労働組合が結成した全国中央組織で、略称を評議会と言いました。
 結成時、32組合1万2,500人でしたが、1926年(大正15)の共同印刷争議、日本楽器争議などの大争議を指導する中で加盟組合が増え、2年後には、59組合3万5,000人にまで発展したのです。
 そして、1927年(昭和2)5月の第3回大会では、金融恐慌下での困難な状況に対し、「政党政派を問わず資本に対する統一闘争のために共同」の方針を決め、工場代表者会議などの運動を組織して、失業手当、健康保険、最低賃金法、八時間労働制などの「五法律獲得闘争」を展開しました。
 しかし、政府による数々の激しい弾圧を受け、1928年(昭和3)の三・一五事件の一環として、労働農民党、全日本無産青年同盟とともに安寧秩序を乱す団体として「治安警察法」により結社を禁止されています。
 その後、同年12月には日本労働組合全国協議会(全協)として再建されました。

☆日本労働組合評議会結成時の綱領

1.組合運動の目的
 組織と闘争によって資本の搾取に対抗し労働条件を維持改善し、生活の安定と向上をはかり、労働階級の完全なる解放と合理公正なる社会生活の実現のためにたたかうことは、組合運動の目的である。

2.組合運動の教育的任務
 組合運動によって労働大衆を教育し、労働階級をして資本主義の精神的支配より完全に独立し、階級意識にもとづく団体的行動の訓練をあたえることは、組合運動の教育的任務である。

3.行動の一般方針
 労働階級の完全なる解放をもって一切の組合政策の根本基調とすると同時に、労働大衆とのあいだに緊密なる接触をたもち、労働大衆の現実の必要と要求とに立脚した政策によって、闘争を発展せしむることをもって組合行動の一般方針とする。

4.組合組織の原則
 組合の一切の機関には、一般組合員の意志をもっとも敏速正確に反映せしめ、組合大衆をしてつねに組合の行動に活発に関与せしめると同時に、大衆の意志と行動とをもっとも有効に集中して、最大の闘争力を発揮せしむるがごとき民主的集中主義をもって組合組織の原則とする。

5.組合組織の目的
 被搾取者たる共通の利害と、これにもとづく階級的意識に立脚して、すべての労働者を産業的ならびに一大階級的組織に団結せしめることをもって組織をすすめる目標とする。
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 今日は、天皇機関説で有名な憲法学者美濃部達吉が、1948年(昭和23)に亡くなった日です。
 美濃部達吉は、明治時代後期から昭和時代前期に活躍した憲法学者・行政法学者です。1873年(明治6)に、兵庫県加古郡高砂町(現在の高砂市)の漢方医の次男として生まれ、第一高等中学校予科を経て、1894年(明治27)に、東京帝国大学法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)に進みました。
 1897年(明治30)に大学卒業後、内務省に勤務し、1899年(明治32)よりドイツ、フランス、イギリスに留学することになります。1902年(明治35)帰国後、すぐに東京帝国大学法科大学に助教授として向かい入れられ、2年後教授になりました。
 1911年(明治44)帝国学士院会員になり、1912年(大正元)に出した『憲法講話』で、天皇機関説を発表して、君権絶対主義を唱える上杉慎吉と論争することになります。1932年(昭和7)に貴族院議員となりますが、1935年(昭和10)国体明徴問題で右翼・軍部に攻撃され、貴族院議員を辞任し、著書『逐条憲法精義』、『憲法撮要』などは発禁処分となりました。
 敗戦後の1946年(昭和21)に枢密顧問官に任じられ、現行憲法案の審議に参加しましたが、1948年(昭和23)に76歳で、亡くなっています。
 尚、東京都知事を務めた、美濃部亮吉は長男です。

☆「天皇機関説」とは
 大日本帝国憲法の解釈をめぐる一つの憲法学説で、法人たる国家が統治権の主体で、天皇は国家の最高機関であり、内閣はじめ他の機関から支えられながら統治権を行使すると説いたものでした。ドイツのG・イェリネック等の学説(国家法人説)を取り入れた、憲法学者の美濃部達吉に代表される学説で、上杉慎吉や穂積八束らの天皇主権説(国家の主権または統治権は天皇に属し、その行使に制限はないというという学説)などと対立したのです。そして、1935年(昭和10)の貴族院本会議で菊池武夫が、美濃部達吉らの著作を挙げて天皇機関説を排撃しました。これを契機に国家主義団体、軍部、官僚などによる国体明徴運動が起こり、攻撃されて政治問題化します。その結果、美濃部達吉は貴族院議員を辞職させられ、その『憲法撮要』など主著は発禁とされ、天皇機関説は大学の講壇から排除されるに至りました。これにより、大日本帝国憲法下における立憲主義の統治理念は、公然と否定されることとなったのです。
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 今日は、考古学者相沢忠洋が、1989年(平成元)に亡くなった日です。
 相沢忠洋は、昭和時代に活躍した考古学者で岩宿遺跡の発見により日本の旧石器時代の存在を立証したことで知られています。
 1926年(昭和元)に、東京の羽田て生まれ、正徳小学校夜間部卒業後、軍隊経験を経て、戦後群馬県桐生に復員しました。1945年(昭和20)から、独学で考古学を学びながら、小間物(後に納豆)の行商をしつつ赤城山麓周辺で土器や石器の採取を行っていたのです。
 そして、1948年(昭和23)から翌年にかけて、群馬県新田郡笠懸村(現在のみどり市)岩宿の切り通しの関東ローム層中から、黒曜石で作られた打製石器を発見しました。1949年(昭和24)明治大学考古学研究室と共同で発掘調査し、それが旧石器時代のものと判明したのです。その結果岩宿遺跡が日本で最初の旧石器時代遺跡の発見となりました。
 その功績により、1961年(昭和36)に群馬県から表彰され、1967年(昭和42)には、吉川英治文化賞を受賞することになります。1972年(昭和47)から宇都宮大学で講師を務めるなどし、晩年は、夏井戸遺跡(桐生市)の発掘に尽力しましたが、1989年(平成元)5月22日に62歳で亡くなりました。
 著書に、『「岩宿」の発見-幻の旧石器を求めて-』(1969年)、『赤土への執念-岩宿遺跡から夏井戸遺跡へ-』(1980年)、『赤城山麓の旧石器』(関矢晃との共著:1988年)などがあります。
 尚、岩宿遺跡は、1979年(昭和54)に国の史跡に指定されました。出土品については、近くにある「みどり市岩宿博物館」で見ることができます。また、岩宿遺跡より北方約7kmには、1991年(平成3)開館の「相沢忠洋記念館」があり、相沢氏に関する資料を収蔵していて、見学することが可能です。

☆相沢忠洋著『「岩宿」の発見-幻の旧石器を求めて-』から、石器を発見した場面を引用しておきます。

「山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
 「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」
 私は、その石を手におどりあがった。そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
 それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
 もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。」 
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