ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2017年05月

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 今日は、写真家木村伊兵衛が、1974年(昭和49)に亡くなった日です。
 木村伊兵衛は、昭和時代に活躍した、日本を代表する写真家の一人で、明治時代後期の1901年(明治34)12月12日に、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれ、1919年(大正8)京華商業学校(現在の私立京華商業高等学校)を卒業しました。
 翌年、台南市(台湾)の砂糖問屋に入社し、仕事のかたわら写真館に出入りして、営業写真の技術を習得したのです。
 関東大震災後の1924年(大正13)に帰京し、東京日暮里で写真館を開業するとともに、アマチュア写真家として活動しました。
 1930年(昭和5)に花王石鹼広告部に入社し、広告写真を撮影しながら、小型カメラ(A型ライカ)を使って、街頭でのスナップ写真を撮るようになります。
 1932年(昭和7)に月刊写真雑誌『光画』を野島康三らと発刊し、翌年名取洋之助、伊奈信男、原弘、岡田桑三らと「日本工房」を設立して、花王石鹼を退社しました。
 その後、報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまな分野で活躍し、高い評価を得たのです。
 1950年(昭和25)日本写真家協会初代会長となり、1955年(昭和30)に菊池寛賞、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞しました。
 また、リアリズム写真において土門拳とは双璧をなし、1966年(昭和41)に日本リアリズム写真集団の顧問に就任しています。
 晩年まで意欲的に写真撮影していましたが、1974年(昭和49)5月31日に心筋梗塞のため72歳で亡くなりました。
 翌年その業績を記念して、新人写真家を対象とする「木村伊兵衛写真賞」(朝日新聞社主催)が創設されたのです。
 代表作品としては、『木村伊兵衛外遊写真集』 (1955年)、『前進座舞台写真集』 (1966年) などがあります。
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 今日は、1950年(昭和25)に「文化財保護法」が公布された記念日です。
 この法律は、昭和時代中期の1950年(昭和25)5月30日に公布、同年8月29日に施行され、時々の状況に合わせて何度か改正されていますが、「文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もつて国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献すること」(第1条)を目的とした法律です。
 1949年(昭和24)1月26日の法隆寺金堂壁画焼失が契機となり、議員立法によって制定されました。
 それまでの、「国宝保存法」(1929年制定)、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」(1933年制定)、「史蹟名勝天然記念物保存法」(1919年制定)などを吸収・廃止し、歴史上または学術上価値あるものは、土地や植物、動物などをも文化財として保護することにしたものです。
 保護の対象となる文化財は、(1)有形文化財(建造物・絵画・彫刻・工芸品・書跡・典籍・古文書・考古資料・歴史資料その他)、(2) 無形文化財(演劇・音楽・工芸技術その他)、(3) 民俗文化財(風俗慣習・民俗芸能に用いられる衣服、器具、家屋その他の物件)、(4) 記念物(遺跡・名勝地・動物・植物・地質鉱物など )、(5) 文化的景観(地域における人々の生活または生業および地域の風土により形成された景観地)、(6) 伝統的建造物群(周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群)となっています。
 これらの重要なものを重要文化財、史跡・名勝・天然記念物に指定し、特に価値の高いものは、国宝、重要無形民俗文化財、重要有形民俗文化財、特別史跡・特別名勝・特別天然記念物、重要文化的景観、重要伝統的建造物群保存地区の指定がなされました。
 重要文化財に関し、所有者・管理者への財政援助が規定され、また、現状変更の制限、修理の届出制、輸出の禁止、売渡しの際の申出制などの文化財保護のための規制も定められています。
 以下に、「文化財保護法」の一部を載せておきます。

「文化財保護法」

第一章 総則

(この法律の目的)
第一条 この法律は、文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もつて国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献することを目的とする。

(文化財の定義)
第二条 この法律で「文化財」とは、次に掲げるものをいう。
一 建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡、典籍、古文書その他の有形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの(これらのものと一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件を含む。)並びに考古資料及びその他の学術上価値の高い歴史資料(以下「有形文化財」という。)
二 演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所在で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの(以下「無形文化財」という。)
三 衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術及びこれらに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件で我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの(以下「民俗文化財」という。)
四 貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で我が国にとつて歴史上又は学術上価値の高いもの、庭園、橋梁、峡谷、海浜、山岳その他の名勝地で我が国にとつて芸術上又は観賞上価値の高いもの並びに動物(生息地、繁殖地及び渡来地を含む。)、植物(自生地を含む。)及び地質鉱物(特異な自然の現象の生じている土地を含む。)で我が国にとつて学術上価値の高いもの(以下「記念物」という。)
五 地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの(以下「文化的景観」という。)
六 周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの(以下「伝統的建造物群」という。)
2 この法律の規定(第二十七条から第二十九条まで、第三十七条、第五十五条第一項第四号、第百五十三条第一項第一号、第百六十五条、第百七十一条及び附則第三条の規定を除く。)中「重要文化財」には、国宝を含むものとする。
3 この法律の規定(第百九条、第百十条、第百十二条、第百二十二条、第百三十一条第一項第四号、第百五十三条第一項第七号及び第八号、第百六十五条並びに第百七十一条の規定を除く。)中「史跡名勝天然記念物」には、特別史跡名勝天然記念物を含むものとする。

(政府及び地方公共団体の任務)
第三条 政府及び地方公共団体は、文化財がわが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない。

(国民、所有者等の心構)
第四条 一般国民は、政府及び地方公共団体がこの法律の目的を達成するために行う措置に誠実に協力しなければならない。
2 文化財の所有者その他の関係者は、文化財が貴重な国民的財産であることを自覚し、これを公共のために大切に保存するとともに、できるだけこれを公開する等その文化的活用に努めなければならない。
3 政府及び地方公共団体は、この法律の執行に当つて関係者の所有権その他の財産権を尊重しなければならない。

 以下略
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 今日は、歌人・詩人与謝野晶子が、1942年(昭和17)に亡くなった日で、最後の歌集『白櫻集』に因んで、白櫻忌と呼ばれています。
 与謝野晶子は、明治時代後期から、昭和時代前期にかけて活躍した歌人、詩人で、本名は、与謝野志ようといい、1878年(明治11)、大阪府堺市の老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれました。
 堺女学校補習科卒業後、家業の菓子屋を手伝いながら古典を独習しました。1900年(明治33)東京新詩社に加入し,翌年に22歳で上京することになります。その後、処女歌集『みだれ髪』を刊行し、浪漫派の歌人として注目されるようになりました。
 そして、「明星」の主宰者与謝野鉄幹と結婚することになります。それからは、鉄幹と共に浪漫主義詩歌運動を進めながら、社会評論、文化学院の創設など、多方面で活躍することになりました。
 歌集「火の鳥」、「小扇」、「舞姫」や詩歌集「恋衣」を残したほか、日露戦争に出征した弟を思う反戦詩「君死にたまふこと勿れ」や、源氏物語の現代語訳などでも知られています。
 12人の子どもを産み、育てましたが、1940年(昭和15)に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17)に、63歳で死去しました。

<代表的な歌>
「金色の 小さき鳥の かたちして いちょう散るなり 夕日の丘に」
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」
「柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君」

※「君死にたまふこと勿れ」(きみしにたまふことなかれ)は、与謝野晶子著の詩で、明治時代後期の1904年(明治37)9月に、文芸誌『明星』に発表したものです。この年の2月に日露戦争がはじまり、晶子の弟籌三郎は7月、補充召集を受けて出征、第四師団第八連隊に所属し、日露戦争に加わっていました。弟は、前年結婚したばかりで、身重の新妻を残しての出征だったのです。戦火の中にいる弟を心配して詠んだものでしたが、文芸批評家大町桂月は、10月の雑誌『太陽』で、“国家的観念を藐視した危険な思想”だと非難しました。それに対して、晶子は、11月の『明星』に掲載した「ひらきぶみ」で、“少女と申す者誰も戦争ぎらいに候”と反論しています。
 以下に、「君死にたまふこと勿れ」を掲載しておきます。

「君死にたまふこと勿れ」
   
    旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて          
      與謝野 晶子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
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 今日は、1953年(昭和28)に小説家堀辰雄が亡くなった日で、辰雄忌と呼ばれています。
 堀辰雄は、昭和時代に活躍した小説家で、1904年(明治37)、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれ、東京府第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)から、第一高等学校理科乙類へ入学しました。
 その頃から文学に目覚め、『校友会雑誌』にエッセイや詩を投稿しています。その後、東京帝国大学文学部国文科に入学し、中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊しましたが、重い肋膜炎を患い、3ヶ月ほど休学しました。
 芥川龍之介の自殺の衝撃を卒業論文『芥川龍之介論』に書き、卒業後は、1930年(昭和5)に「聖家族」を雑誌『改造』に発表し、文壇で高い評価を受けることになります。しかし、喀血をして自宅療養したものの、病状が好転せず、3ヶ月間、長野県の富士見高原療養所に入院しました。
 その後、矢野綾子と婚約しましたが、綾子は結核のために富士見高原療養所で、1935年(昭和10)に死去し、その体験が、代表作である小説『風立ちぬ』のモチーフとなったと言われています。
 昭和10年代以降は、病気療養をしながらも、王朝文学や古代への関心も深めて『かげろふの日記』、『曠野』、『大和路・信濃路』などの作品も残しました。太平洋戦争末期に信州信濃追分に疎開、その地で療養を続けましたが、 1953年(昭和28)に48歳で亡くなります。
 現在、ゆかりの地である信濃追分に「堀辰雄文学記念館」が開設されていますが、そこに随筆『大和路・信濃路』の文学碑もあります。この随筆は、以前は国語の教科書にもよく掲載されていて、なじみの深い方もみえると思います。
 堀辰雄は、折口信夫から日本の古典文学について教えを受け、王朝文学を題材にした『かげろふの日記』を執筆しましたが、その頃から日本の古代に対する思いを深め、1937年(昭和12)6月から1943年(昭和18)5月にかけて計6回奈良を訪れています。それらの旅行を随筆的にまとめたものを雑誌『婦人公論』に1943年(昭和18)1月から8月まで『大和路・信濃路』として連載しました。それに「樹下」を加え、戦後の1946年(昭和21)に、単行本『花あしび』の中に収録されて刊行されたのです。堀辰雄が大和路や信濃路を歩いた時の感動が伝わってくるような文章で、これを携行して旅した人も少なくないと思われますが、以下に一部を引用しておきます。

〇堀辰雄の主要な作品

・『聖家族』(1930年)
・『恢復期』 (1931年)
・『燃ゆる頬』 (1932年)
・連作『美しい村』 (1933年)
・『物語の女』 (1934年)
・連作『風立ちぬ』 (1936~38年)
・『菜穂子』 (1941年)
・『かげろふの日記』 (1937年)
・『曠野(あらの)』(1941年)
・紀行文『大和路・信濃路』 (1943年)
・『雪の上の足跡』 (1946年)

○随筆『大和路・信濃路』の「浄瑠璃寺の春」から

 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
 最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。
 なにもかもが思いがけなかった。――さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりの部落とその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根の下からは七面鳥の啼きごえさえのんびりと聞えていて、――まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。……
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ。」僕は突然足をとめて、声をはずませながら言った。「ほら、あそこに塔が見える。」
「まあ本当に……」妻もすこし意外なような顔つきをしていた。
「なんだかちっともお寺みたいではないのね。」
「うん。」僕はそう返事ともつかずに言ったまま、桃やら桜やらまた松の木の間などを、その突きあたりに見える小さな門のほうに向って往った。何処かでまた七面鳥が啼いていた。
 その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
 どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
「何をいつまでもそうしているのだ。」僕はとうとうそう言いながら、妻を促した。
 僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。

☆浄瑠璃寺とは?
 京都府木津川市にある真言律宗の寺院で、本尊は九体阿弥陀如来(国宝)と薬師如来(国指定重要文化財)で、1047年(永承2)に義明上人により開基されたと伝えられています。平安時代後期建立の本堂と三重塔(いずれも国宝)が残り、平安時代の寺院の雰囲気を今に伝えているのです。緑豊かな境内は、梵字の阿字をかたどった池を中心にした浄土式庭園で、東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した極楽世界を表現しているとのことです。とても貴重なものなので、1985年(昭和60)に国の特別名勝になっています。
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 今日は、1235年(文暦2)に、藤原定家によって「小倉百人一首」が完成されたことにちなむ百人一首の日とされています。
 これは、藤原定家著『明月記』の文暦2年(1235)5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があって、この記載が、「小倉百人一首」の初出ではないかと考えられていることによります。その記述は以下のとおりです。

予本自不知書文字事。嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経。
 
☆「小倉百人一首」とは?
 藤原定家が撰んだと言われる秀歌撰で、鎌倉時代の1235年(文暦2)頃に成立したと考えられています。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳天皇に至る約550年間に、貴族や僧侶などの歌人たちの間で詠まれた和歌から、百人の有力歌人の歌を一首ずつ選んだもので、すべて勅撰和歌集から集められています。その10の和歌集と選ばれた数を列挙しておきます。
 古今集(24首)、後撰集(7首)、拾遺集(11首)、後拾遺集(14首)、金葉集(5首)、詩花集(5首)、千載集(14首)、新古今集(14首)、新勅撰集(4首)、続後勅撰集(2首)
 京都の小倉山荘で撰ばれたので、この名があり、近世以後、歌ガルタとして広まりました。

〇「小倉百人一首」中の私の好きな歌を8首載せておきます。

・「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣)
・「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」(紫式部)
・「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」(小式部内侍)
・「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」(伊勢大輔)
・「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木」(権中納言定頼)
・「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり」(能因法師)
・「憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを」(源俊頼朝臣)
・「村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ」(寂蓮法師)
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