与謝野晶子は、明治時代後期から、昭和時代前期にかけて活躍した歌人、詩人で、本名は、与謝野志ようといい、1878年(明治11)、大阪府堺市の老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれました。
堺女学校補習科卒業後、家業の菓子屋を手伝いながら古典を独習しました。1900年(明治33)東京新詩社に加入し,翌年に22歳で上京することになります。その後、処女歌集『みだれ髪』を刊行し、浪漫派の歌人として注目されるようになりました。
そして、「明星」の主宰者与謝野鉄幹と結婚することになります。それからは、鉄幹と共に浪漫主義詩歌運動を進めながら、社会評論、文化学院の創設など、多方面で活躍することになりました。
歌集「火の鳥」、「小扇」、「舞姫」や詩歌集「恋衣」を残したほか、日露戦争に出征した弟を思う反戦詩「君死にたまふこと勿れ」や、源氏物語の現代語訳などでも知られています。
12人の子どもを産み、育てましたが、1940年(昭和15)に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17)に、63歳で死去しました。
<代表的な歌>
「金色の 小さき鳥の かたちして いちょう散るなり 夕日の丘に」
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」
「柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君」
※「君死にたまふこと勿れ」(きみしにたまふことなかれ)は、与謝野晶子著の詩で、明治時代後期の1904年(明治37)9月に、文芸誌『明星』に発表したものです。この年の2月に日露戦争がはじまり、晶子の弟籌三郎は7月、補充召集を受けて出征、第四師団第八連隊に所属し、日露戦争に加わっていました。弟は、前年結婚したばかりで、身重の新妻を残しての出征だったのです。戦火の中にいる弟を心配して詠んだものでしたが、文芸批評家大町桂月は、10月の雑誌『太陽』で、“国家的観念を藐視した危険な思想”だと非難しました。それに対して、晶子は、11月の『明星』に掲載した「ひらきぶみ」で、“少女と申す者誰も戦争ぎらいに候”と反論しています。
以下に、「君死にたまふこと勿れ」を掲載しておきます。
「君死にたまふこと勿れ」
旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
與謝野 晶子
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。
あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。