美濃部達吉は、明治時代後期から昭和時代前期に活躍した憲法学者・行政法学者です。1873年(明治6)に、兵庫県加古郡高砂町(現在の高砂市)の漢方医の次男として生まれ、第一高等中学校予科を経て、1894年(明治27)に、東京帝国大学法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)に進みました。
1897年(明治30)に大学卒業後、内務省に勤務し、1899年(明治32)よりドイツ、フランス、イギリスに留学することになります。1902年(明治35)帰国後、すぐに東京帝国大学法科大学に助教授として向かい入れられ、2年後教授になりました。
1911年(明治44)帝国学士院会員になり、1912年(大正元)に出した『憲法講話』で、天皇機関説を発表して、君権絶対主義を唱える上杉慎吉と論争することになります。1932年(昭和7)に貴族院議員となりますが、1935年(昭和10)国体明徴問題で右翼・軍部に攻撃され、貴族院議員を辞任し、著書『逐条憲法精義』、『憲法撮要』などは発禁処分となりました。
敗戦後の1946年(昭和21)に枢密顧問官に任じられ、現行憲法案の審議に参加しましたが、1948年(昭和23)に76歳で、亡くなっています。
尚、東京都知事を務めた、美濃部亮吉は長男です。
☆「天皇機関説」とは
大日本帝国憲法の解釈をめぐる一つの憲法学説で、法人たる国家が統治権の主体で、天皇は国家の最高機関であり、内閣はじめ他の機関から支えられながら統治権を行使すると説いたものでした。ドイツのG・イェリネック等の学説(国家法人説)を取り入れた、憲法学者の美濃部達吉に代表される学説で、上杉慎吉や穂積八束らの天皇主権説(国家の主権または統治権は天皇に属し、その行使に制限はないというという学説)などと対立したのです。そして、1935年(昭和10)の貴族院本会議で菊池武夫が、美濃部達吉らの著作を挙げて天皇機関説を排撃しました。これを契機に国家主義団体、軍部、官僚などによる国体明徴運動が起こり、攻撃されて政治問題化します。その結果、美濃部達吉は貴族院議員を辞職させられ、その『憲法撮要』など主著は発禁とされ、天皇機関説は大学の講壇から排除されるに至りました。これにより、大日本帝国憲法下における立憲主義の統治理念は、公然と否定されることとなったのです。