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 今日は、昭和時代前期の1930年(昭和5)に、小説家田山花袋の亡くなった日です。
 明治時代後期から昭和時代前期に活躍した小説家で、本名は田山録弥といい、1871年(明治4)年12月13日、旧館林藩の下級武士の家の次男として生まれました。
 父鋿十郎は上京し、警視庁巡査となりましたが、1877年(明治10)の西南戦争に従軍し戦死しています。
 以後、田山家は困窮した生活を続け、花袋も丁稚奉公に出されたこともありました。しかし、館林東学校に通いつつ、旧館林藩儒学者の吉田陋軒に漢学を学び、この頃から漢詩や和歌に興味を持ち、雑誌に投稿するようになります。
 14歳の1886年(明治19)に一家で、東京に移り住んだ花袋は、1891年(明治24)、尾崎紅葉を訪れ、小説家を志します。西欧文学に刺激されて、日本での新しい文学にチャレンジ、日露戦争の時は従軍記者にもなりました。
 1907年(明治40)『蒲団』の発表により、日本の自然主義文学の確立者として、文壇に地位を得ました。続いて、『生』、『妻』、『縁』の三部作や、『田舎教師』を発表して注目されます。
 紀行文にも定評があり、晩年には歴史小説や、心境小説にも取りくみましたが、1930年(昭和5)5月13日、58歳で亡くなっています。

〇小説「田舎教師」とは?

 田山花袋の代表作の一つ、明治時代後期の1909年(明治42)に出版された小説で、自然主義文学では、島崎藤村の「破戒」と並ぶ双璧とされています。
 この小説は、妻の兄に当たる当時の建福寺(文中では成願寺)住職太田玉茗(文中では山形古城)から、肺結核のため、21歳で亡くなった青年教師小林秀三(文中では林清三)の話を聞いたことがきっかけになったそうです。
 彼は、埼玉県第二中学校(現熊谷高等学校)卒業後、弥勒高等小学校に準教員として3年間勤務し、建福寺にも下宿したことがありました。死後残された日記を読んで、丹念に実地踏査をし、5年の歳月を経て、出版されたのです。
 その結果、当時の埼玉県北部(熊谷、行田、羽生等)の様子を彷彿とさせる記述となっていて、実在の場所や建物がたくさん登場します。特に、農村の風景を描いた描写は秀逸で、のどかな田野の情景を垣間見るような気になります。
 尚、埼玉県羽生市にある「羽生市立郷土資料館」には関連する資料が展示されています。