
岡部金治郎(おかべ きんじろう)は、明治時代後期の1896年(明治29)3月27日に、愛知県名古屋市に生まれました。旧制愛知第5中学(現在の県立瑞陵高校)を経て、1916年(大正5)には、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)紡織科を卒業します。
1917年(大正6)に、高田商会大阪支店に入社しましたが、東北帝国大学理科大学助手となり、1918年(大正7)に、東北帝国大学理科大学物理科へ入学しました。翌年に、工学部電気工学科に転じ、1922年(大正11)には、卒業して、同大学講師となり、1925年(大正14)には、助教授に昇任します。
1927年(昭和2) に“分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こしました。1929年(昭和4)に、論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となります。
1934年(昭和9)に名古屋高等工業学校教授を辞め、翌年には、大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任しました。1936年(昭和11)に極超短波の研究で朝日文化賞を受賞、1939年(昭和14)には、教授に昇任し、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受けます。
1941年(昭和16)に日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となり、1944年(昭和19)には、文化勲章も受章しました。太平洋戦争後、1951年(昭和26)に同研究所所長となったものの、1955年(昭和30)に定年退官し、翌年には、大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任します。
1966年(昭和41)に近畿大学九州工学部長となり、1969年(昭和44)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1972年(昭和47)に近畿大学を辞めましたが、1984年(昭和59)4月8日には、愛知県において、老衰のため、88歳で亡くなっています。
1917年(大正6)に、高田商会大阪支店に入社しましたが、東北帝国大学理科大学助手となり、1918年(大正7)に、東北帝国大学理科大学物理科へ入学しました。翌年に、工学部電気工学科に転じ、1922年(大正11)には、卒業して、同大学講師となり、1925年(大正14)には、助教授に昇任します。
1927年(昭和2) に“分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こしました。1929年(昭和4)に、論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となります。
1934年(昭和9)に名古屋高等工業学校教授を辞め、翌年には、大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任しました。1936年(昭和11)に極超短波の研究で朝日文化賞を受賞、1939年(昭和14)には、教授に昇任し、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受けます。
1941年(昭和16)に日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となり、1944年(昭和19)には、文化勲章も受章しました。太平洋戦争後、1951年(昭和26)に同研究所所長となったものの、1955年(昭和30)に定年退官し、翌年には、大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任します。
1966年(昭和41)に近畿大学九州工学部長となり、1969年(昭和44)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1972年(昭和47)に近畿大学を辞めましたが、1984年(昭和59)4月8日には、愛知県において、老衰のため、88歳で亡くなっています。
〇岡部金治郎の主要な著作
・『特殊熱電子管』(1946年)
・『電子工学』(1948年)
・『超高周波』(1954年)
・『人間は死んだらどうなるか』(1971年)
☆岡部金治郎関係略年表
・1896年(明治29)3月27日 愛知県名古屋市に生まれる
・1916年(大正5) 名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)紡織科を卒業する
・1917年(大正6) 高田商会大阪支店に入社、東北帝国大学理科大学助手となる
・1918年(大正7) 東北帝国大学理科大学物理科入学する
・1919年(大正8) 東北帝国大学工学部電気工学科に入学する
・1922年(大正11) 東北帝国大学(現在の東北大学)工学部電気工学科を卒業し、講師となる
・1925年(大正14) 東北帝国大学助教授となる
・1927年(昭和2) “分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こす
・1929年(昭和4) 論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となる
・1934年(昭和9) 名古屋高等工業学校教授を辞める
・1935年(昭和10) 大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任する
・1936年(昭和11) 極超短波の研究で朝日文化賞を受賞する
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学教授に昇任、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受ける
・1941年(昭和16) 日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となる
・1944年(昭和19) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 大阪大学産業科学研究所所長となる
・1955年(昭和30) 大阪大学産業科学研究所所長を定年退官する
・1956年(昭和31) 大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任する
・1966年(昭和41) 近畿大学九州工学部長を務める
・1969年(昭和44) 勲一等瑞宝章を受章する
・1972年(昭和47) 近畿大学教授を辞める
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