
高野辰之(たかの たつゆき)は、明治時代前期の1876年(明治9)4月13日に、長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)の豪農だった父・高野仲右衛門、母・いしの長男として生まれました。1890年(明治23)に、下水内高等小学校高等小学科卒業後、永田尋常小学校授業生(代用教員)となります。
1893年(明治26)に長野県尋常師範学校へ入学、1897年(明治30)に卒業後、下水内高等小学校訓導となりました。1898年(明治31)に、国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学びます。
1900年(明治33)に、長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教え、1902年(明治35)には、「国文学史」教科書を出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となりました。1904年(明治37)に文部省国語教科書編纂委員、1908年(明治41)に東京音楽学校邦楽調査嘱託、1909年(明治42)には、教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となります。
1910年(明治43)に東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となり、1911年(明治44)に尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」、1912年(明治45)に尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」、1914年(大正3)には、尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載しました。1917年(大正6)に東京音楽学校邦楽調査掛主事となり、1922年(大正11)に『近松門左衛門全集』を出版、1923年(大正12)には、國學院大學講師となります。
広く文献資料を収集・考証し、1925年(大正14)に論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得、1926年(大正15)に『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任、1928年(昭和3)には、「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞しました。1934年(昭和9)に野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求め、1935年(昭和10)には、勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版します。1936年(昭和11)に東京音楽学校を定年退職、1941年(昭和16)には、大正大学も退職しましたが、1947年(昭和22)1月25日に、長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなりました。
1893年(明治26)に長野県尋常師範学校へ入学、1897年(明治30)に卒業後、下水内高等小学校訓導となりました。1898年(明治31)に、国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学びます。
1900年(明治33)に、長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教え、1902年(明治35)には、「国文学史」教科書を出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となりました。1904年(明治37)に文部省国語教科書編纂委員、1908年(明治41)に東京音楽学校邦楽調査嘱託、1909年(明治42)には、教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となります。
1910年(明治43)に東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となり、1911年(明治44)に尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」、1912年(明治45)に尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」、1914年(大正3)には、尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載しました。1917年(大正6)に東京音楽学校邦楽調査掛主事となり、1922年(大正11)に『近松門左衛門全集』を出版、1923年(大正12)には、國學院大學講師となります。
広く文献資料を収集・考証し、1925年(大正14)に論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得、1926年(大正15)に『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任、1928年(昭和3)には、「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞しました。1934年(昭和9)に野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求め、1935年(昭和10)には、勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版します。1936年(昭和11)に東京音楽学校を定年退職、1941年(昭和16)には、大正大学も退職しましたが、1947年(昭和22)1月25日に、長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなりました。
〇高野辰之の主要な著作
<著書>
・『歌舞音曲考説』(1915年)
・『日本民謡の研究』(1924年)
・『日本歌謡史』(1926年)学士院賞受賞
・『日本演劇之研究』(1926年)
・『日本歌謡集成』全12巻
・『江戸文学史』(1935年)
・『日本演劇史』全3巻(1947~49年)
<作詞>
・「故郷」
・「朧月夜」
・「もみじ」
・「春がきた」
・「春の小川」
・「日の丸の旗」
・「人形を迎える歌」(作曲:東京音楽学校)
・「人形を送る歌』(作曲:島崎赤太郎)
・「飯山小唄」(作曲:中山晋平)
☆高野辰之関係略年表
・1876年(明治9)4月13日 長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)の豪農だった父・高野仲右衛門、母・いしの長男として生まれる
・1887年(明治20) 豊津学校永江支校小学中等科卒業する
・1890年(明治23) 下水内高等小学校高等小学科卒業後、永田尋常小学校授業生(代用教員)となる
・1893年(明治26) 長野県尋常師範学校へ入学する
・1897年(明治30) 長野県尋常師範学校を卒業後、下水内高等小学校訓導となる
・1898年(明治31) 国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学ぶ
・1900年(明治33) 長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教える
・1902年(明治35) 「国文学史」教科書出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となる
・1904年(明治37) 文部省国語教科書編纂委員となる
・1908年(明治41) 東京音楽学校邦楽調査嘱託となる
・1909年(明治42) 教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となる
・1910年(明治43) 東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となる
・1911年(明治44) 尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」を掲載、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」を掲載する
・1912年(明治45) 尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」を掲載、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」を掲載する
・1914年(大正3) 尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載する
・1917年(大正6) 東京音楽学校邦楽調査掛主事となる
・1922年(大正11) 『近松門左衛門全集』を出版する
・1923年(大正12) 國學院大學講師となる
・1925年(大正14) 論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得する
・1926年(大正15) 『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任する
・1928年(昭和3) 「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞する
・1934年(昭和9) 野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求める
・1935年(昭和10) 勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版する
・1936年(昭和11) 東京音楽学校を定年退職する
・1941年(昭和16) 大正大学を退職する
・1947年(昭和22)1月25日 長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1701年(元禄14) | 真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日) | 詳細 | |||||
1880年(明治13) | 福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される | 詳細 | |||||
1902年(明治35) | 北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する | 詳細 | |||||
1945年(昭和20) | 小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される | 詳細 | |||||
1957年(昭和32) | 医学者・細菌学者志賀潔の命日 | 詳細 |
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